Nobody Knows





第二部


4



 一見何事もなかったかのように、船は進んでいく。サンジの不安定さに変化はない。依然として唐突に眠り、倒れる。しかし、その不安定さにも、クルーは全員慣れていった。不安定な非日常であったことも、続けばそれは日常になる。人間とはどんな状況にも慣れてしまう生き物なのだ、とゾロは妙に感心した。
 とりあえず、次の島に着いたらきちんと検査してもらおう、という船医の主張のおかげか、「島で検査」イコール「記憶が戻るんじゃないか」という楽観的な雰囲気にもなっていた。
 何よりも、サンジ自身に深刻さがあまりない。一体何を考えているのか、読めそうで読めないところがあった。
 眠気や頭痛がないときは、細々とした雑用をしたり、掃除をしたり。ルフィやウソップ、チョッパーと遊んだりもしている。釣りであったり、ウソップが作った発明品を眺めたり、チョッパーには絵本を読んでやったりもしている。たまに、ロビンにでも借りたのだろう、ゾロなら到底手を出さないような本を読んでいたりもする。
 今日もまた、サンジは本を読んでいた。食後に、ウソップに作ってもらった椅子に悠然と腰掛けて、ぱらぱらと捲っている。
 ウソップの椅子はかなりお気に召したようで、本を読むときは必ずこの椅子に座っていた。
 ゾロが酒を失敬しようとラウンジの扉を開けると、サンジがやけに真剣に本を読んでいる姿に出くわした。別に邪魔をする理由もなかったので、ゾロはすたすたと足音を押さえてワインラックに向った。適当に一本抜いて出て行こうとすると、サンジが顔を上げた。
「あんた、また酒飲むのか。さすがに多くねェ?」
「全然。一日一本じゃ少ねェくらいだ」
「ほんとかよ」
 ぱたんと本を閉じて、サンジは呆れたように笑った。何となく会話に付き合わなければいけないような流れになってしまったので、ゾロは目の前の椅子を引いて座った。どうせ、どこで飲んでも変わりはない。ワインのコルクを歯でむしりとって、そのまま喉に流し込む。
 ナミが適当に集めた酒だったのだろう。安い味がした。買った当人が飲まないはずだ、とゾロは酒を開けるたびに同じ事を思った。おかげで前の島を出てから随分経つのに、酒の消費は少ない。いくらゾロでも、まずい酒を大量に飲む趣味はないので、これはナミの作戦なのかもしれない。
「まずそうに飲むなよ」
「実際まずいんだ」
「生産者が聞いたら大激怒だな」
「聞いてたら、こんなクソまずい酒を出したことを死ぬ気で後悔させてやるんだがな」
 サンジはくつくつと笑った。
「何読んでたんだ、それ」
 ゾロは目線で本を示した。やけに分厚かったので、何となく聞いてみた。サンジは、「ああこれ」と表紙を撫でながら呟いた。
「料理本。おれの荷物って中に入ってた」
「へえ、見たことねェな」
「ケースの一番底に入ってたからな。普段は見ないものなのかもしれねえ。料理の世界にも図鑑ってあるんだな。いや、目録って言うのか?」
「おれは知らん」
「少しは会話に乗って来いよ、お前」
「知らねェもんにどう乗れってんだ」
「最初に会ったときから思ったけど、お前は社交性ってのがないんだなあ。社交性ってのも少し違うか? 説明不足すぎるんだな」
「そんなことはねェ」
 ゾロは眉を顰めた。
「そうか?」
「ああ。必要なことはちゃんと言うさ、おれだって」
「へえ」
 サンジは本を閉じて、にやりと笑った。
「じゃあ、教えて欲しいことがあるんだけど」
「何だ」
 自分から言ったくせに、サンジは少し間を置いた。ぐるりとラウンジを見回してから、ゾロへと視線を移した。
「海賊船のコックとして必要とされるものってなんだ?」
「なんだいきなり」
「なにもわからねェからさ。知っておく必要があるだろ? 普通の料理人として以外に必要不可欠な技能がなけりゃだめなんだろう。知っていることでいいから教えてくれよ」
「おれはコックじゃねェからわからねえ」
 専門的なことはゾロにだってわからない。普段出てくる料理の数々に、どれほどの手間がかかっているのか。それすらもゾロにはよくわからない。
「別に専門的なことじゃなくていいんだ。そうだな……」
 サンジは指先を顎に当てて、首を傾げた。
「……んじゃ、ゾロはどんな人間ならこの船のコックとしてやっていけると思う」
 ゾロはまじまじとサンジの顔を見つめた。飲んでいたワインのボトルを、ごとりとテーブルの上に置いた。重い音が響いた。
「聞いてどうする」
「おれはコックだったんだろう? 気になるからさ」
 サンジは笑った。どこか作り物染みた笑みだった。本心から思っているのかわからない。
「減るもんじゃないし。いいだろ。教えろよ、ゾロ」
「……やることは陸のコックと基本的には変わらねェんじゃないか。おれもよくは知らん。ただ、一人で食料の在庫管理をしてたし、栄養配分は必要以上に気にしていたな。あとはべつに。度胸があれば十分だろ」
「度胸か。海賊だもんな」
「まあな」
「おれも戦ってたって、ナミちゃんが言ってたけど、やっぱり全員戦うわけか」
「ああ」
「チョッパーも?」
 ゾロは頷いた。
「あいつだって強い」
「へえ! ナミちゃんもロビンさんも戦うんだろうな。海賊とは思えないくらい可愛いのに」
「見た目と反して悪魔だぞ、あいつらは。いっぱし以上の戦力だ」
「ひでえ」
 サンジは、ははは、と笑った。大事な「レディ」とやらへの過剰反応もなくなっている。
「そうだよな。この船、人数いないもんな。戦えない人間は無理か」
 頬杖をついて、サンジは部屋の隅へと視線を投げた。
 思案気な表情をみて、ゾロは気づいた。サンジは余計なことを考えているらしい。
「もう一つある」
 ゾロは反射的に声を出していた。
 なんだ? とサンジは頬杖をついたままゾロを見て片方の眉を上げた。
「海にでる目的があることだ」
 追いつめるような発言だということはわかっていた。サンジは案の定、上げたばかりの眉を下げた。
「夢ってやつか」
 苦笑するようにつぶやいてから、今度は窓へを目線を逸らした。
 もうこちらを見ることはないだろうと思ったので、ゾロはそのまま席を立って、ラウンジを出た。






 海から吹き付けてくる風が柔らかくなってきた。最近は冷たい風が吹き付けてくることが多かったので、気持ちが良かった。寒さが苦手らしいナミが、久しぶりに甲板にパラソルと椅子を出してきて寝そべっている。
「こんな気持ちのいい日は久しぶりね。でも目に入る緑は暑苦しいわねえ。ちょっとゾロ、あんた後部甲板に行きなさいよ」
 機嫌も良いのか、そんな無茶振りまでしてくる。
「後から来たてめェが行け」
「無理。私体力ないから、パラソルとか椅子とか持ち上げられないもの。あんた鍛錬中なんだから、その鉛類もってさっさと行きなさいよ」
「……そうそうてめェの意見が通ると思うなよ」
「通るのよ、通らない物も通すのが私の主義だもの」
 にこりと笑って、ナミは腕と足を組んだ。
「あー、こういうときにサンジくんのスペシャルドリンクが飲みたいなあ……」
 周囲にサンジがいないことをちゃんと確認してから、ナミはこぼした。
「もう一ヶ月か……。私、半年前に比べて絶対肌艶悪くなったわ。これ絶対食生活のせいよね」
「記憶が戻ったら盛大に文句言ってやれ。あいつのことだから一生奉仕すんじゃねェか」
 ゾロは振っていた鉛を下ろして、タオルで額の汗を拭いた。拭いてもじわじわとにじんでくる。暖かいせいで普段より余計に発汗している。
「あちィな。おいナミ。夏島が近ェのか?」
「ねえゾロ。あんた、サンジくんの記憶が戻るって、本気で思ってる?」
 ゾロの問いを無視して、ナミが言った。
 椅子に寝そべっていた背を起こして、ナミはじっとゾロを見上げていた。
「知らねェよ。おれは医者じゃねェからな。チョッパーに聞け」
 昨日の夜から、やたらと意見を求められることが続いている。ゾロは早くもうんざりしていた。自分にそういう話題を振るとは、ナミも相当暇なのだろう。もしくは、行き詰っているかだ。
「ゾロって、そういうところがよくわからないのよね。医者の意見がどうとか、そういうことを聞いているんじゃないのよ。あんた自身がどう思っているか聞いているんじゃない。ねェどうなのよ?」
 これまた昨日のサンジと同じである。一般論ではなくて、ゾロがどう思うか。知るか、と聞かれた方にしてみれば、投げてしまいたくなる。
「戻るだろ」
 ゾロはぞんざいに返した。
「その根拠は?」
 ナミがなにを聞きたいのかはわからない。ゾロは周囲の気配を伺った。サンジがこの近くにいないことを確認してから、ゾロは口を開いた。
「根拠なんかねェよ。ただ、戻らなかったら、あいつがこの船にいる意味がない」
「……ゾロ!」
 なんてことを言うの、とナミは立ち上がった。がたん、と長いすが音を立てる。パラソルの影になっていても、ナミの表情はわかった。ひどく怒っている。
「記憶がなくても、サンジくんはサンジくんよ。この船の一員よ。コックじゃなくても、それは変わらないわ。そんなこと、もうちゃんと確認済みじゃない。それを言うのは反則でしょ!」
 焦ったようにナミは捲し立てる。
「それを否定する気はねェよ。おまえが信じたいのもわかる。ただ、あいつがあいつだってのは、ナミ。おまえもわかってんだろ。なら、おれたちが止めても、あいつは船を下りるぞ。自分で決断してな」
 生ぬるいと感じた風が、なんとなく冷たくなったような気がした。
「そういう奴だ」
 意義も意味もないと判断したら、サンジは船を下りるだろう。曖昧なまま船にとどまるような甘えた人間ではないのだ。そして、何よりも、自分のことではなくて他人のことを考える。
「次の島までがリミットだな」
「ゾロ」
「もう算出できてんだろ? 昨日までこもって計算していたのは知ってる。あと何日だ」
「……三日よ」
 ナミは顔を背けた。
「この風もそう。あんたの言うとおり、次は夏島よ。そこから流れてくる風が暖かいの。これからどんどん暑くなるわ」
「そうか」
 ナミはすとんと長椅子に腰を下ろした。
「あんたらしいわ」
「なにが」
「言いにくいことをはっきり言うところよ。……正直に言うわ。私もどこかでそう思っていた。サンジくんはいなくなるんじゃないかって。目的がない人間にとって、この船は居辛いわ。『オールブルー』という夢まで忘れてしまったサンジ君には辛すぎるのよ」
 ――夢を忘れてしまうって、どういう気持ちなのかしら。
 ナミはぽつりと呟いた。
「気持ちも何もねェだろ。忘れちまったんだ。何も思わねェ」
「なんだか、嫌よね。私の方がショックだわ。サンジ君の夢だけど、私だって『オールブルー』ってどんなところだろう、くらいは考えているのに。きっとどんな海よりも鮮やかで、青くて、綺麗なんだろうなってね……」
 ナミはどうやら情緒不安定のようだった。サンジのスペシャルドリンクを思い出したせいで、何事もなかった半年前が恋しくなっているようだった。
「おいナミ、お前生理か?」
 女が情緒不安定な理由は、これしか思いつかない。
 ナミは眉を吊り上げた。
「いきなり何を言うのよあんたは! セクハラか!?」
「あれは、何かなると不安定になんだろ? 違ェのか」
「違うわよ!」
 ダンダン、と甲板にヒールの底を打ちつけてから、ナミは長椅子に寝そべった。
「あー、あんたと話してると疲れるわ。話にならん! 精神的ダメージを食らうだけだわ。藻類とは会話にならないって言ってたサンジ君の気持ちがよーくわかった」
 反論すればまた神経を逆撫ですることになりそうなので、ゾロは大人しく海面を見ていた。いい加減面倒になってきた、というのもある。海の色は明るい。深く濃い青い色。暖かい季節の海の色だった。
「まあ、大丈夫だろ。あいつは船に居る」
 会話をしないと決めたのに、海を見ていたら自然と言葉が漏れた。
「……どっちなのよ!」
 ナミは声を張り上げた。
「ルフィが許さねェ」
 誰にも次の行動が予測できない、しかし肝心なところでは頼もしい船長の名をひっぱり上げると、こんなことで話し合っているのがばかばかしくなってくる。ナミもそう思ったのか、ふう、とため息を付いた。
「目的がねェなら作れ、とか軽く言いそうよね」
「ああ」
 それに、とゾロは心の中だけで思った。
 ――サンジは海でしか生きられない。
 本能がそう叫んでいるような気がする。例えば、ゾロが全てを忘れてしまっていたとしても、きっとやがて剣を取るという確信がある。なってみなければわからないが、それはあらかじめ決まっているような気がしていた。一度剣を手に取り、剣と共に過ごしてきた人生なのだ。記憶がそれを手放してしまっても、この手は剣を掴んでいたことを忘れるはずがない。剣の重みも、振るった衝撃も、この掌は覚えているはずだ。たとえくいなとの約束や、野望を忘れていても、「剣を取る」という基本だけはこの掌に戻ってくるに違いない。
 ゾロはそういう体感を信じている。ゾロという人間を形作っているのは、記憶だけではない。この体が覚えている事だってあるはずなのだ。
 サンジだって同じだろう。ずっと海で過ごしてきた人間なのだ。確かな大地ではなくて、不安定な、けれどどこまでも広い海の只中で生きてきた人間である。そんな人間が、陸に残るはずがない。
 しかし、その一方で、陸に残ると言い出すだろうという確信もある。
 自分のことで人に迷惑を掛けることを極端に嫌うからだ。
 現に、昨日の様子では、サンジは船を下りることを考えている。ゾロにはわかった。きっと、次の島に着いても記憶が戻らなかったら、この船に乗ってくれそうなコックを探すつもりなのだろう。自分が適応していくという考えはなく、適応出来る代替を当てるつもりだ。
 自分がこの船にいたいから、という理由では動かない。迷惑をかけているから、自分は役に立つことができないから、ちゃんと海賊としてやっていける、即戦力になる人材をあてがおうとしている。
 周囲のことを優先しようとするところは、どうやら変わらないらしい。
 そんな点だけ変わらないなんて、サンジはとことんゾロを苛々させる人間である。
 下ろさせてなるものか、とゾロは船べりをきつく掴んで思った。絶対に、下ろしてなどやらない。爪が木枠にめり込んだ。
 彼のわがままを、ゾロが許容するいわれなどない。
 また、この船にのっている全員もまた、それを許すことはしない。絶対に。
 サンジの敗因は、このクルーのしつこさを忘れていることだ。そんなことも忘れてしまっていることだった。





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