Nobody Knows





第二部


5



 日増しに気温が高くなっていく。
 ナミが言ったとおり、夏島まであと数日なのだろう。じわじわと纏わり付くような暑さになってきた。比例して、チョッパーがぐったりとしてくる。毛皮にはさぞかし辛いのだろう。
「おいチョッパー、大丈夫か? 昼飯食ったらプール作ってやるよ」
「……うん、ありがとう、ウソップ……」
「うっひょー! プール! プール!」
「って、おめェが喜んでどうすんだルフィ!」
「だって、あっちィんだもんよー」
「まあ、確かに暑いわよね」
 ナミがテーブルを拭きながら言うと、ウソップが顔を上げた。
「あと何日で着くんだ? ナミ」
「……三日よ」
 ちらりと、答えたナミがサンジを見たのを、ゾロは見逃さなかった。彼女の目には、明らかに焦りが浮かんでいた。大丈夫、大丈夫と思い続けていても不安なのだろう。
「さ、出来たわ」
 キッチンから目を離して、本日の調理担当であるロビンが振り返った。
「めっしー!」
 とルフィが勢いよく両手を上げると、ウソップが立ち上がった。サンジも立ち上がって、食器棚へと向う。
「何を作ったんだ、ロビン?」
「ポトフよ」
「……このあっつい時にかよ」
 ウソップが力なく突っ込むと、ロビンは少しばかり不服そうな顔をした。
「あら、暑いときには暑い食べ物が良いのよ。冷たいものばかりとって、体を冷やしすぎると良くないんですって」
「誰の受け売りだあ? それ」
「……秘密よ」
 ロビンは背中を向けているサンジへ目線を投げた。ウソップは瞬時に気づいて、言葉を飲み込んだようだった。
 サンジは聞こえていたのかもしれないが、まるで何も聞こえていないという風に、コップを卓上に並べていた。
 深皿によそって人数分を配って、食事が始まった。
 ロビンが作るのは初めてだったが、ポトフはとてもよく出来ているように見えた。野菜は崩れていたが、食欲をそそる匂いだ。
「……う」
 が、人さじすくって飲んだクルーは、ロビンを除いて全員が動きを止めた。ゾロはワンテンポ遅れていたので、口に入れずにすんだ。
 固まっていた面々が、無言でスプーンを置き、水をごくごくと飲んだ。製作者のロビンだけが躊躇いなく口をつけている。
「なななななんで食べれるのよロビン……!」
「か、辛い……っ! 辛いぞっ! あと苦い!」
 ナミとチョッパーが悲鳴を上げ、ウソップはしばらく「うえええ」と口元を押さえた後、心底不思議そうにロビンを見た。
「どうしてこの見た目から、こんな味になるんだ?」
「……どんな味だよ」
「いいから食ってみろよ、ゾロ」
 見た目は完全にちゃんと、ポトフである。ゾロは一さじ口に入れて、うっと唸った。
 チョッパーが言ったように、辛い。そして後味が苦い。一番強く感じるのは辛みだが、唐辛子とは違うような辛さだった。
「……芥子か?」
「あら、よくわかったわね、剣士さん」
 いっそすがすがしいくらいにっこりと、ロビンは笑った。
「芥子を入れる意味がわかんないんだけど!」
「んじゃこの苦いのはなんだっ!?」
「調味料棚にあったものを入れてみたのよ。私もよくわからなかったのだけど」
「わかんないものを入れないでよっ!」
「なななななら、この苦いのはなんだ? おれ、なんか鼻がおかしくなりそうだ……」
 チョッパーが鼻を押さえているので、ゾロは自分の分の水を分けてやった。獣の嗅覚ではきついのだろう、涙目になっていた。
「ゴーヤの粉末かな」
 解決は思わぬところからやってきた。え、とナミが振り返る。視線の先にはサンジがいた。
 サンジは興味深そうにスープを掬うと、躊躇いなく口に入れている。
「うん、やっぱゴーヤの味だ。ロビンさん、粉入れたでしょ」
「ええ、確か粉だったわ。良く分かったわね、コックさん」
 ロビンはにこりと笑った。
「いや、勘だけどね」
 サンジは自分で言いながらも、不思議そうに首を傾げている。そうして、もう一口、スープを啜った。
「お前、良く食えるなあ……」
 ウソップが感嘆したように言う。
「慣れれば、この辛味と苦味もいけるぜ?」
「そうかあ?」
「ほら、ルフィも食ってんじゃん」
 食事の時だけは無言の船長は、いつものようながっつきはないものの、スプーンを突っ込んでは口に入れている。二日前にウソップが作った、固くなったパンをスープに浸して、ひたすら食べている。
「しんっじらんない。とてもじゃないけど、食べらんないわ、私。ほらルフィ、私のもあげるわよ」
「あらひどい」
 と口では言いながらも、ロビンは全く堪えた風ではない。ルフィは「任せろ!」と男らしい返事をして、ナミの深皿を奪った。
「ロビン、あんたも完璧な女じゃないってわかって安心したわ」
「あらひどい」
「ロビン、ごめんよー。おれも食べれねェ」
「いいのよ、船医さん。スパイスが駄目だって、作っているときに思い出せなかったの。ごめんなさい」
 チョッパーに対しては、ロビンは少しだけ申し訳なさそうだった。
「それにしても、ロビンよー。ポトフを食べたことくらいあんだろ? なんで芥子入れたんだ?」
「食べたことはあったのだけど、材料が何かはわからなかったの。だから、似た色の調味料を入れてみたのだけど。ポトフのスープは黄金色でしょう?」
 いっそすがすがしいくらい、ロビンはなぜか自信満々だった。ウソップはがっくりと肩を落とした。
「……レシピ見ようぜ」
「ねえ、サンジ君。ポトフの作り方、わかるかしら」
 唐突に、ナミはサンジに問いかけた。ゾロも二口目に手を伸ばせないポトフを、サンジはゆっくりと食べていたが、「え?」と驚いたように顔を上げた。
「ごめん、おれにはわからないよ、ナミちゃん」
 ナミは何を思ったのか、じっとサンジを見ている。
「さっき、サンジ君は、この苦味が何か当てたでしょう? それと同じ、気軽に答えてくれればいいのよ。ね、もしポトフを作るとしたら、何を入れるかしら」
「おい、ナミ」
 ウソップがナミを呼んでも、ナミは止まらなかった。
「何でもいいのよ、サンジ君。お願い、少しだけ考えてみて」
「ナミちゃん」
 ナミの懇願に動かされたのか、サンジはスプーンを置いた。それからじっと、スープ皿を見下ろした。
「作り方」
 難問をふっかけられた子どものように、サンジは途方に暮れたように呟いた。
「そうよ、何でもいいの。どうかしら。サンジ君だったら、どんな味付けをする?」
 焦りが滲まないようにと努力をしているようだったが、ナミの表情は真剣すぎた。あと三日、という島への距離がずっと脳裏にあるのだろう。
「考えてみて」
 ナミはもう一度言った。サンジはぎこちなくナミを見つめた後、クルーを見回した。ウソップやチョッパーはサンジを励ますように、頷いた。サンジはゾロにも目を合わせた。およそ、以前には見せなかったような、僅かな怯えがその目の奥に見えた。
 気に食わない色をしていたので、ゾロはとりあえず静観することに決めた。サンジはゾロが何も言わないとわかって、すっと目を外した。最後に、スープ皿に目を落す。
「……そうだな。おれだったら、」
 躊躇いながらも言葉を続けようとしたところで、サンジの言葉が止まった。言葉だけじゃない。身動ぎもせずに俯いたままだった。
「サンジ君?」
 ナミが訝しげな声を上げる。
 サンジは皿を見つめながら、ぼたぼたと大粒の涙を落していた。隣に座っているゾロが、おそらく一番初めに気づいた。
 目を見開いて泣いているものだから、少し異様だった。
 サンジが泣いているところなど、ほとんどのクルーは見たことがなかったのだろう。ナミとウソップは突然のことに硬直している。ロビンはいまだに口に運びかけていたスプーンを空中で静止させ、チョッパーは心配そうにサンジを見上げた。船長だけは食べることをやめなかった。がつがつと船長が租借する音だけが響いているという異常な光景になっていた。
 ほとんどのクルーの視線を集めながらも、サンジは目の前の皿を食い入るように見つめている。ぼたぼたと涙を垂らしながら。
 やがて、
「……ジジイ」
 と、サンジは小さく呟いた。ナミがはじかれたように立ち上がる。
「うそっ、思い出したの!?」
 サンジはぼんやりとナミを見上げた。少し焦点が合っていないような目をしていた。困ったように笑ってから首を振る。
「ごめん。全部は思い出してねェんだ。でもちょっとだけ、思い出した」
 口調があの懐かしい響きを伴っていた。
「おれは、コックなんだな」
 皿の上にも、ぼたぼたと雫が垂れて、サンジは慌てて皿の縁を指で拭った。
「やべェ、止まんね」
 サンジは掌で頬をぬぐった。チョッパーがキッチンからタオルを持ってきて、サンジの目に当ててやった。
「一気に思い出したから、頭が混乱しているんだ。理性がついていかないから、きっと生理的な涙なんだな。泣いた方がいいよ、サンジ。必要な涙なんだ。きっとその方が楽になるし、気持ちが落ち着く」
「うん」
 頷いたサンジは妙に幼く見えて、ゾロは元から無かった食欲を、余計になくした。ルフィの前に皿をスライドさせると、おお! と喜びの声もあらわに、船長は食らいつきはじめた。船長のマイペースさが本気で羨ましくなった。
「海に、出てる」
 タオルの中から、サンジのくぐもった声がする。
「おれはオールブルーを探しに出てきたんだな」
 オールブルー。
 コックが大事にしている名前が出て初めて、ルフィが皿から顔を上げた。がしゃん、と握っているスプーンの柄をテーブルの上に落とす。
「そーだぞ、サンジ。おめェ、忘れてる場合じゃねェよ」
 うししし、といつもの笑い方で笑った。
「悪かったな。だがあいにく、まだお前のことは思い出してねェんだよ、船長」
「なんだー、まだかー。でも、コックだってことは思い出したんだろ?」
「まあな」
「うっし、なら許す! やっとサンジのメシが食えるな!」
「なにバカ言ってんのよ、あんたは! 食事の心配だけか!」
 その頭上に、ナミの拳骨が落ちた。皿に顔面から落ちたが、ルフィは気にせずそのまま舐めはじめた。本当に意地汚い船長である。
「あんたねえ……」
 ナミも呆れたように脱力した。はあ、とため息を吐いてから、しかし全快の笑顔を浮かべて、サンジを振り返った。
「とにかく、良かったわ、サンジくん。少し思い出せたのなら、今後も色々思い出せる可能性が出てきたもの。そうよね、チョッパー」
「うん、いい傾向だよ。ひとつでも何か思い出せば、連鎖した記憶がどんどん引き出されるかもしれない。でもサンジ、何回も言うようだけど焦っちゃだめだぞ」
「わかった」
 まだ脳の混乱状態は解けないのか、サンジはほとほとと涙を落としている。泣くつもりで泣いているわけではないので、嗚咽もなく、表情は逆に冷静だ。その様子はひどくアンバランスだった。
 タオルを目に当てて、サンジはテーブルを見渡した。
「食事、作ってくれてありがとう、ロビンさん」
「いいのよ」
 ロビンが笑って食事を開始する。
「おい、おれらに礼はないのかよ」
「あー、男に持ち合わせる礼はねェな」
「そういうところだけは元通りなのかよ、オイ!」
 ばしばしとテーブルをたたきながらも、ウソップは嬉しそうだった。
「さーて、迷惑掛けちまったからな。夕飯は期待してくれよ」
 これには、ゾロを抜かした全員が歓声を上げた。







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