Nobody Knows





第二部


2



 あいつ、また一人でぶらぶらしやがって。
 ゾロは内心でため息をついた。
 「誰かと必ず一緒にいること」を義務付けられているはずの本人は、無防備に一人きりで後方の甲板に佇んでいる。その姿を、ゾロは階段から見下ろした。
 金色の頭が、水平線を見つめている。
 立ち位置は記憶を失くす前と変わらない。
 休憩中なのだと、いつもここに居た時は、煙草の煙がゆらゆらと風に流れていた。しかし今は、喫煙の習慣もすっかり忘れたようで、サンジの周囲には緩やかな潮風が流れているだけだった。金髪が僅かに揺れている。
 サンジはぴくりとも動かずに海を見ていた。過ぎ去った島を、残してきた老婆を思い返しているのかもしれない。
 ゾロはわざと音を立てて階段を下りた。サンジがはっと振り返る。ゾロを見止めて、気まずそうに笑った。ゾロに容易く笑いかける、その表情を見て、ゾロは嗜める気をすっかり無くしてしまった。
「一人で甲板に出るなって、チョッパーに言われてんだろ」
「ごめん」
 サンジは僅かに目を逸らした。
「それと、悪いな。おれ、また寝ちまった?」
「……もういいのか」
「ああ、別に体調が悪いわけじゃねェから」
 サンジは困ったように眉を寄せてから、俯いた。
「なんだか、迷惑かけて悪いな。いっつもソファに運んでくれてんだろ?」
「……べつに」
 素直に謝られることには未だ慣れていない。あのサンジが、あの口の悪いサンジが、悪態しかつかなかった奴が、素直に自分に礼を言う。しかも、この自分に対してだ。ぞわぞわと悪寒がするくらいの、激しい違和感が背筋を駆け上る。こればかりは一ヶ月経っても慣れない。おそらく、いつまで経っても慣れないだろう。
 無意識に腕を擦っていることに、ゾロはしばらくして気づいた。
「おれ、この船に乗ってよかったのかな」
 弱気なことをサンジは言った。ゾロは腕を擦る手を止める。
「いいもなにも、てめェは元々この船の一員だ」
「記憶もないのに?」
「てめェになくても、おれたちにはある」
 ゾロにしては珍しく、慰めを口にしていた。このサンジを相手にしていると、ゾロはいつもの憎まれ口が発動しない。以前のようにつまらない喧嘩もできないほど、このサンジはサンジらしくない。記憶がないだけで、別人を相手にするような緊張感が常にある。それはとても、不思議な感じがした。同じ人間なのに、初対面のようで、手探りで相手を知っていかなければならないもどかしさがつきまとっている。それはサンジも同じなのだろうけれど。
 サンジは、ゾロをまっすぐに見つめてきた。
「お前の頭の中には、おれがどんな奴だったのか、全部入っているんだろうなあ」
 うらやましい、と言わんばかりの口調だった。
「おれの分まで、忘れずに覚えておいてくれよ」
 あきらめたように笑って、サンジはゾロの肩を叩いた。返事を待たずに、歩いていってしまった。
 背中を少しだけ丸めて歩く姿勢は変わらない。
 その背中が視界から消えてから、ゾロはため息をついた。なんだか、無意識にため息をついていることが多くなってしまった。それはクルー全員に言える。ルフィを除いてではあるが。
「……お前のことなんておれだって知らねェよ」
 本人が耳にしないことをいいことに、ゾロは言葉を風に乗せた。
 サンジのことなど、ゾロは何もわからない。
 何を考えていたのか。
 ゾロをどう思っていたのかも。



 サンジが行方不明になってからの半年間、ゾロは彼が行方不明になる直前のことを、ずっと思いだそうとしていた。
 いったいどんな会話をしただろう? 最後に触れたのはいつだっただろうか? 彼の料理を食べたのは、何が最後だったのか?
 しかし、いくら思いだそうとしても、出てくるのはそれより以前のことばかりだった。それはいつもの他愛の無いことばかりで、キッチンで楽しそうに料理をしている姿だとか、憎まれ口を叩きながら起こしにくる足音だとか、珍しく上機嫌にゾロの首に手を回してきた時のことであったりとか、だったりした。
 海にのまれた日、記憶の中で一番新鮮なサンジの姿を、ゾロはどうしても思い出すことができなかった。
 思いだそうと努力をするのは、最後になるかもしれないと無意識にあきらめていたからかもしれない。
 逆に、思い出そうとすることで、探しだしてやるという意欲を保っていたかったからかもしれない。
 不思議なことに、ゾロ本人にすら、なぜなのかは分からなかった。しかし、ずっとゾロは最後に見たサンジの映像を思い出そうとしていた。
 他のクルーのように、泣いたり沈んだりはしなかったけれど、ゾロの内面にも、静まらない波がずっとあった。ちりちりと騒いで、片時も休まることはなかった。
 だからだ、とゾロは水平線を眺めながらもう一度自分の気持ちを再確認してみる。
 ――生きていればいい。
 違和感ありまくりの気持ちの悪いサンジでも、彼であることには変わりはない。ゾロは失望など全くしていない。
 他のクルーだって根本は変わらないはずだ。記憶を取り戻して欲しいと切望していても、今のサンジを否定しているわけではない。
 失望し始めているのは、他ならぬサンジなのだ、とゾロは思う。
 思い出せない自分に対して、酷く失望している。そんな必要はない、と他人が言っても、むしろ言うたびに、申し訳なさで心を擦り切れさせていくのだろう。
 それは誰も取り除いてやることができない。だからこんなにももどかしく、苛立たしい気分になってしまうのだ。
 ゾロは空を見上げた。空と海だけは、いつまでも変わらない。そのことはゾロの気分を少しだけ落ち着かせた。



 ふと目が覚めた。
 唐突な目覚めだったので、ゾロはしばし神経を尖らせた。もしかして、敵襲があるのかもしれないと思ったからだった。
 非常にたまにではあるが、鉄を切れるようになってから、敵襲がある前に人の殺気を感じられることがあった。殺気は潮風にのってやってくるのかもしれない。今回もそうかと思ったけれども、ゾロの琴線に触れるような気配はなかった。
 むしろ、一つ足りない、とゾロは気づいた。目線だけソファへと落すと、案の定、そこに眠っているはずのサンジがいなかった。外に出ているのかもしれない。
 あれほど、一人で行動してはいけないといい含められているのに。やっぱりあいつはサンジだ、とゾロは思った。人の忠告に頷いておきながら、それをあっさりと破るのは以前と全く変わらない。
 ゾロは軽く舌打ちをしてから、むくりと起き上がって男部屋を出た。
 扉を開けると月明かりが目に眩しいほどだった。眠気を追いやるように瞬きをしてから、ゾロはラウンジへと足を向けた。ぎしぎしと床板が軋む。メリーも大分古くなったものだ。
 階段からラウンジを見上げると、灯りがついていた。丸窓からそっと覗くと、サンジがテーブルに頬杖を付いていた。まだ室内にいるだけましか、とゾロは思った。
 扉をゆっくりと開けると、サンジがこちらを向いた。
「眠れねェのか」
「なんだ、起きたのか。びっくりした」
「おれは昼間に一人で出歩くなって言ったよな」
「悪い。なんか、目が覚めちゃってさ、つい」
 サンジは取り繕うように笑った。
「なに、心配して来てくれたのか? だったらほんとに悪かった。ごめん」
「簡単に謝るな」
 少し語尾がきつくなってしまった。
「……ごめん」
「いや」
 サンジは何でもすぐに謝る。怒っても謝ってくるのだから、ゾロはますます行き場のない気持ちを持て余すことになってしまう。このサンジを「珍しい」と楽しむことができればいいのに、とゾロはやけくそ気味で思った。そうすることが出来ないのはわかりきっている。
 しかし、だからといって今のサンジを投げ出すことも出来なくて、ゾロは半ば諦めて、サンジの目の前の椅子を引いて座った。
「で、何読んでんだ」
 サンジは、ノートのようなものを広げていた。頬杖をついてそれに魅入っていたのが、外の丸窓を覗いたときに見えていた。
「これ? これなあ、レシピ?」
「ああ、お前がつけてたやつか」
「やっぱり? 昔のおれが書いてたのか」
 サンジは再びノートに目を落とした。
「すげえよ、これ。素人じゃ全然わからないような走り書きなんだ。料理にも専門用語ってあるんだな。見たことも聞いたこともない横文字が羅列してるし、メモ書きだから、全然繋がってねえんだ。思い付きをメモしたものなのかもな。……って、おれが書いたんだろうけど」
 サンジは心底感心した、という風にゾロを見上げて笑った。まるっきり他人の話をしているような素振りだった。それを書いたのは、今まさに頬杖をついている手であり、その本人だというのに。こいつの頭の中はどうなってんだろうなあと、ゾロは一体幾度目になるのかわからない問いを頭の中にめぐらせた。それは着地点が無く、以前にめぐらせた問いと混ざって、脳内をぐるぐると旋回し始めた。着地するのはいつになるのか、ゾロにもわからない。
「ゾロの名前が多いんだ、これ」
 問いをめぐらせている時だったので、ゾロはサンジの言葉に反応するのが遅れた。
「……なんだって?」
 聞きなおすと、サンジは顔を上げて首を傾げた。
「このノートだよ。走り書きに、お前の名前がよく書いてある」
 ゾロは、手元のノートを見下ろした。しかし、読む気はなかったので、本当に眺めただけだった。
 そのノートには見覚えがあった。一日の終わりに書いていることが多かった。書いている後ろから覆いかぶさって、ノートを閉じたこともある。たまに急いで書いている時もあって、その途中で邪魔をすると、ゾロの顔を押しのけながら、それでもペンを走らせていた。「閃いたときに書いておきてェんだよ!」と怒鳴られたこともある。
「レシピのメモとか、専門的なことはわからねえんだけど、時々余白に一言書いてあるんだ。それはおれにも読める。ルフィが食料を漁ったとか、ウソップが卵を抜き取ったとか、明日のメニューは何にするかとか。そういうの」
 サンジはノートを捲って、余白を指差した。逆さまになって見えないが、確かにノートの余白には小さな文字で書き込みがされている。備忘録みたいなものとして使っていたのだろう、とゾロは思った。
「余白の登場人物は、ゾロが一番多いんだ。寝過ごして一食抜いただとか、柔らかいパンは苦手だとか、好物は後回しにするタイプだからよくルフィに取られてるとか」
 ゾロは頬杖をついてサンジがそれを読み上げるのを聞いていた。へえ、そうだったのか、とゾロはサンジの頭をぼんやりと眺めた。
 あいつは、そんなことまで書き残していたのか。
 記憶からはそんな出来事は消えているのに、文字ではしっかりと残っている。
 ゾロが柔らかいパンを苦手にしていることまで、把握されているとは知らなかった。はっきりと口で言った記憶はない。基本的に、食事に対する個人的な注文はつけたことはなかった。米が食いてェということくらいは言ったことがあるが。
「お前って、酒飲みなんだな。マリモが酒の在庫を飲みつくしたって殴り書きされているぞ」
 サンジはははは、と笑った。
「やっぱ、マリモって言われてたんだな」
「うっせえ。お前まで言うな」
「いいじゃん。言わせろよ」
 余計なところだけ同じだな、と口に出す寸前でゾロはこらえた。それを言ってはいけないような気がした。
「ゾロとおれって、仲が良かったのか?」
「……ああ?」
「そんな怪訝そうな声出さなくてもいいだろ」
「お前が変なこと言うからだろ」
「変か?」
 サンジはじっとゾロを見てくる。
「だって、同い年だし、ノートにはお前の名前が良く出てくるし。ティエラのところではお前だけおれと一緒に居ただろ。ここのメンバーは皆仲が良いけれど、お前はもっと近しいのかと思ってた」
 ――そりゃ、寝てたからな。
 と、ゾロは口に出さずに心中で同意した。仲が良いというのは違う。確実に間違っている。しかし、ある意味で、他のクルーとは違う位置で近くにいたことは確かだった。
 それを、今のサンジに言うことは出来ない。
「まあ、そうかもな」
 適当に頷くと、サンジは「そっか」とほっとしたように笑った。
「おれ、同い年の友人って始めてかも。ティエラのところではほとんど上か下ばっかだったからなあ。まあ、忘れちまっただけで、過去には友達がいたのかもしれねえけど。思い出せもしないなんて、薄情だよなあ」
 仕方ないだろう、とゾロが言う前に、サンジは唐突に目を瞑った。
 倒れる、と意識する前にテーブルを乗り越えて、ゾロはサンジの腕を掴んだ。真後ろに倒れる寸前だった。がくりと、サンジの頭が床に向かって垂れる。ゾロはほっと息をついた。
「ウソップに、背もたれ付きの椅子でも作ってもらうか……」
 サンジの体からは力が完全に抜けていて、頭が重力に従って重く落ちている。二の腕を掴んだまま、ゾロはサンジの側に立って、抱え上げた。
 やっぱり一人で行動させるのは危ない。
 少し発熱しているのか、掴んだ腕も、首に当たる額も熱い。明日の朝まで続くようなら、チョッパーの診察が必要になるだろう。
 さっさとソファに放り込んで自分も寝てしまおう、とゾロは思った。
 なんだか、やたらと疲れたような気がした。
 最後に、サンジを抱えたまま、机の上に広げられていたノートを閉じた。しばらくじっと表紙を見つめてから、いつも仕舞っていた引き出しの中に入れて、ゾロはラウンジを出た。






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