Nobody Knows





第二部


1



 がちゃん、と食器が倒れる音がした。
 倒れる寸前のところで抱き止めたゾロは、テーブルの上にこぼれたコーヒーを見下ろした。液体はテーブルを伝って、端からぼたぼたと玉になって落ちていく。
「悪ィ」
「いいのよ。……それより、連れていってあげて」
 しんとした空気の中、ナミがため息混じりに言った。その顔には疲れた色が浮かんでいる。
「おれも行く」
 チョッパーが席を立とうとしたが、ゾロは目線で制した。
「おいてくるだけだ。気にすんな」
「……ごめんよ、ゾロ」
 今にも泣きだしそうなチョッパーに頷いてから、ゾロは立ち上がる。抱え上げた人物は完全に意識を失っていて、だらりと弛緩していた。背中と膝裏に手を入れて、ゾロはしっかりと抱え直す。自分の肩に頭を凭れかけさせる。
「サンジくん……」
 ナミが呼ぶが、その声は眠りに落ちているサンジには届かなかった。
 沈黙の落ちたラウンジを後にして、ゾロは男部屋へと降りていく。首筋にかかる金髪が振動で揺れる。瞳は閉じられたままだった。
 男部屋のドアを足で蹴りあける。唯一あるソファに、サンジを寝かせた。ここ一ヶ月、このソファはサンジ専用となっている。
 楽な体勢に整えてやってから、ゾロは眠るサンジの横に腰を下ろした。サンジは昏々と眠り続けている。まるで死んでしまったかのように穏やかだった。
 以前はほとんど見ることのなかった寝顔を、この一ヶ月は嫌と言うほど見せられている。
 そして、それは回数を増していくばかりだった。
「どうなってんだかな、おまえの頭は」
 頬に触れると、冷たい感触が伝わった。眠ってばかりいるせいで、どんどん体温が低くなっていっているような気がする。
 ゾロはしばらく、温めるかのように手のひらを当てていた。
 それから、ソファの背に掛け合った毛布をサンジの上にばさりと掛けた。






 思い返せば、ひどい半年間だった。
 あの日のことは、きっとクルーの誰もが忘れないだろう。始まりは何てことのない、ふつうの一日のはずだった。午後に敵襲があったけれども、相手はルフィ一人で全滅させられるような規模で、実際に彼ひとりで返り討ちにして、あっさりと終わりを告げた。
 小規模な連中にしてはちゃんと小金をため込んでいて、ナミをそれなりに満足させもした。
 しかし、それから天災がやってきたのだった。
 それさえも、ころころと天気の変わるグランドラインでは珍しいことではない。優秀な航海士もいるし、彼女の手となり足となって働くクルーもちゃんといる。それでも、いつもより嵐の規模は大きく、大波に浚われて傾いた船から、数人が投げ出されてしまった。ただでさえ嵐の海、その投げ出された中にルフィとチョッパーがいたのはもうどうしようもない。
 ゾロがルフィを、サンジがチョッパーを助けるために、紐を腰に巻き付けて飛び込んだ。ロビンに目を咲かせてもらって、海中で彼らを捕まえる。
 ルフィの方が深く潜っていたため、ゾロはサンジがその時どうなっていたのか、把握できていなかった。
 わかったことと言えば、彼がいなかったという事実だけだった。水を飲んでぱんぱんに膨れたルフィを抱えて甲板に上がると、チョッパーはウソップに抱えられていた。意識を失っているようだったが、腹が上下に動いていたので 、息はまだちゃんとあった。ゾロはほっとしたが、それも束の間で、助けた本人の姿がどこにもないことに気づいた 。
 ナミ! と叫ぶと、彼女は雨で頬を濡らしながら叫んだ。
 ロープが切れているのよ! と。
 先にチョッパーを引き上げ、その後に再び襲ってきた波にサンジは飲み込まれたのだ、と叫んだ。
「どこにも見えない!」
 甲板を打つ雨の音が酷い。そんな中でも、ナミの声は不思議と響いた。
 ロビンが手を咲かせて海へと探索の手を伸ばそうとしたが、長時間海水にさらされた体は、やがて力を失って倒れた。そもそも、無理に海中へ手をのばしていたのだ。能力者としての限界だった。
 上から探っていても埒が明かない。ゾロが飛び込もうとしたところを、ナミがしがみついて止める。振り払って飛び込もうとしたが、ナミの悲鳴のような泣き声で止めた。
「闇雲に飛び込んだら、あんたも死ぬわ!」
 クルーの焦燥をよそに、嵐はだんだんと落ち着いていった。呆気ないほどに簡単に、空は穏やかさを取り戻し、波は引いていった。
 残ったのは、ちぎれたロープと、コックの不在だけだった。
 能力者を寝かせた後も、ナミとウソップとゾロは、波間を凝視し続けた。しかし、金色の髪があがってくることはなく、ただただ青い海と空が広がっているばかりだった。



「サンジ君が、海から落ちたくらいで死ぬはずないわ」
 泣きはらした目を晒しながら、それでも気丈にナミはクルーを見渡した。ラウンジのテーブルに地図を広げて、ナミはその上に指を滑らせる。
「嵐にあった地点はここ。海流の流れは、ここから南へと続くわ。あの嵐だもの。流れはいつもより早いはず。襲撃してきたバカ共の船は木っ端みじんになっていた。サンジくんは、その木片か何かに捕まって流れていると信じる、私は」
 誰よりも現実主義である彼女が、何の根拠もない仮定にすがっている。それを指摘する者はこの中にはいなかった 。
「そして、もしこの海流に乗っているなら、近くにある島に流れ着いていてもおかしくないわ」
 ここと、ここ。
 ナミは地図を指差す。そこには、彼女の爪半分くらいの島が、二つ連なっていた。
「小さな島ね」
 ロビンが呟いた。
「ええ。でも無人じゃないしそれなりに町もある。この二つの島は交流があるみたいだから、わずかでも貿易があると考えられる」
 ただ、とナミは悔しそうに唇を噛んだ。
「ログポースは、この島を指していないのよ。反対の方向の島を指してる。私たちはこの島へ行けないのよ」
 グランドラインでは、ログポースの指し示す方向に逆らうことはできない。いくら腕の良い彼女でも、その理から逃れることはできなかった。
「だから、とにかくログが示す島へ行くわ。そして、なんとかこの二つの島のエターナルポースを手に入れるの。人がいて町がある島なんだもの、どこかにあってもおかしくないわ。手に入れたらすぐに引き返して、サンジ君を探すの」
 ナミはクルーを見回した。
「……以上が、私の提案よ」
 どうする、という目が、今度はルフィに向かった。
 船長は、それまで珍しく深刻な顔をしていたが、ナミを見て、それから全員を見渡してにかりと笑った。
「よし! 早く次の島へ行くぞ! そんで早く戻って、サンジを見つけて、飯を食う!」
「おお!」
 と全員が笑った。
 この時点では、まだ希望はあるのだと誰もが信じていた。



 エターナルポースを見つけるということが、どれほど難しいことなのか。
 一味は焦りとともに思い知った。
 次の島で、手当たり次第に当たったが、販売をしている店はおろか、所有しているという者に行き当たることもなかった。そもそも、目指す島は隣接した島と固まっており、主にその二つの間でのみ交流があったようだ。それで事足りてしまうくらいの。
 そもそもそんな島知らないなあ、というのが大半の人の答えで、ナミは堪え切れずに何度も泣いていた。それを人に見せるような彼女ではなかったが、目元の腫れでどうしても気づいてしまう。
 ルフィの判断で、この島から離れて次の島へと行った。ないなら次で探すまでだ、とルフィの声は力強さを失わなかった。こんな時、やはり奴はこの船の光なのだ、と強く思う。
 しかし、次の島でも見つからず、それから一味は二つ、島を渡った。だいぶ遠くまで来てしまった頃、誰もが希望を失いかけていた頃、やっとエターナルポースを見つけた。
 露天商の足元に、それは無造作に置かれていた。インテリアとして、売りに出されていた。
 胸に抱きしめて、ナミは号泣した。
 ――その時、すでに四ヶ月の月日が経っていた。
 戻るのに一ヶ月を要した。最初に上陸した島には、サンジが流れ着いた形跡は全くなかった。わずかな可能性を信じて、島の人間を当たりまくった。
 可能性の一つがつぶされて、気分が落ち込むのは止められなかった。それでも気分を奮い立たせて、隣島へと移動した。
 クルーの悲愴さを余所に、その島に着いた途端、なんとサンジはあっさり見つかった。
 それも五体満足で。元気な姿で、町の通りを歩いていた。ナミの呼び声に振り向いた彼は、分かれたときと変わらない姿だった。
 金髪で、他には見たことのない眉毛をしていて。サンジ以外の誰かであるはずがないのに。
 しかし、自分がサンジであるという記憶だけを失っていた。



 ラウンジに戻ると、まだ全員が座っていた。食事を終えて、茶を飲んでいる。
「おお、ゾロ。おまえもいるか?」
「ああ、頼む」
「はいよ」
 ウソップがマグカップを渡してくる。先ほど倒したコーヒーはきちんと拭き取られていた。
「サンジ、どうなるんだろうなあ」
 ウソップがため息と共に漏らす。チョッパーは手元のノートを見ながら首を振った。
「わからない。脳のことは本当におれにもなにもできないんだ。……おれ、情けないよ」
「おおおおい、おまえのせいじゃねえよ、チョッパー、泣くな!」
 うん、と鼻をすすって、チョッパーはクルーを見回した。
「もう一度、みんなに言っておくけど、『思い出せ』とか催促するようなことは絶対に言わないでほしいんだ。あるがままを受け入れること。これしかないと思う。おれが昔読んだ文献の中に、記憶の混乱についても書かれてあったんだけど、サンジみたいにすべてを忘れてしまう事例ってのは、珍しいけど確かにあるんだ。でも、すべてを忘れたまま、っていう例はなかった。……その本の中には、だけど。普通は、だんだんと断片を思い出して、そしてちゃんと細部まで思い出すようになるらしいんだ。完治まで時間差はあるけど、修復可能なことなんだよ」
「でも、あいつは半年間も思い出さなかったんだぜ?」
 ウソップがみなを代表するように発言する。
「たぶん、あのおばあさんが記憶を催促することが全くなかったからだと思う。しかも、サンジとは別の『エルマー』としての過去をあげたんだ。だから、サンジもあえて思い出そうとしなかった」
「じゃあ、逆に思いだせって言った方がいいんじゃないの? 過保護すぎてもいけないってことでしょ、それは」
 ナミが少し投げやりな口調で言った。
「でも、無理強いはストレスになるから。自分から思いだそうって意識してもらうしかないんだ。……それに、今のサンジの状況は、『思いだそう』って脳が一生懸命だからこそ、引き起こされているんだ、たぶん」
 ――おれは、いったい誰なんだ。
 そう言ったサンジの声が蘇って、ゾロは眉を寄せた。きっと、あれからずっとくだらないことを考えているのだろう。
「サンジは、せっかく築いた半年をまた否定された。『エルマー』という人間だと信じていたことがなくなって、またゼロにリセットされてしまったんだ。だから、記憶障害の初期段階に戻ってしまった」
 チョッパーの口調は淀みない。小さな船医は、医療の現場に立つと脅えをどこかへと放り投げる。医者が動じるんじゃないよ、患者に不安を与えるなんて、医者失格だ。そうドクトリーヌがはじめに言ったんだ。とチョッパーがいつか言っていた。
 小さな船医は直も続ける。
「今ある症状は、記憶の混乱、そして、極度の眠気。低体温と、逆に発熱も少々、繰り返している。時間軸も混乱している風にも見える。起きたときに、一瞬朝なのか夜なのか、わかってないことがあるから」
 とにかく、とチョッパーはノートを閉じた。
「おれには手出しができない領域なんだ。そっと進行を見守って、サポートするしかない。……次の島で、専門医が見つかるといいんだけど」
 ウソップが、しょげたチョッパーの肩を叩く。ゾロはコーヒーに口を付けた。すっかり冷めてしまったコーヒーは、入れてくれたウソップには悪いが、必要以上に苦かった。半年以上前だったら口にすることもなかったような苦さだった。
 そもそもだ。と、ゾロは少し昔を振り返る。
 船に戻った時、サンジは記憶を失っているものの、体調に問題はなかった。
 なんとか慣れようと、クルー達と積極的に話すようにしていたし、自分から船の暮らしについて事細かく聞いていた。
 手先の器用さは変わっていないようで、教わったことはすぐに会得していた。船上での生活には不自由がなくなるくらいに、素早く吸収していった。
 しかし、この船のコックだったと全員に言われても、料理はできないと首を振った。
 実際に、ナミが強引にやってみてと促すと、覚束ない手付きで包丁を使い始めた。それはあまりにもコックに似つかわしくないたどたどしさで、ナミはサンジに気づかれないように顔をしかめた。見ていられなかったのだろう。サンジよりもナミがショックを受けているように見えた。それから、ありがとう、もういいわ。と彼女は優しく笑った 。
「ごめんね、ナミちゃん」
 とサンジは謝った。その呼び名に、ナミはもう一度微笑んだ。
 その次の日から、サンジは目に見えてぼうっとする時間が増えた。
 作業をしていても、途中で目の焦点が合わなくなる。
 食事中に、突然倒れ込むように眠ることが多くなった。人と会話をしている最中ですら、意識を留めていられない 。まるで気を失うように頭から落ちてしまう。
 最初は脳に障害でも起こったのか、とチョッパーがひどく心配していた。しかし、それが記憶障害に陥った人間によくある症状だと文献で見つけてからは、見守る態勢を取るようになった。
 だから、クルーはサンジの状態に慣れた。
 食事中にいつ倒れてもいいように、手を生やすことのできるロビンか、反射速度の速いゾロが隣に座るようになった。サンジ自身も、あまり船縁と高所には行かないように、気をつけている。
 それでも、立っている時にいきなり頭から倒れることもあって、非常に危険だった。
 意識をなくしているのだから受身を取ることもできない。
 だから、常に誰かと行動を共にするように、サンジは義務付けられた。







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