Nobody Knows
第一部
7
今日は休みな、とエルマーは部屋に促された。従って部屋に入ると、ゾロがついてきていた。後ろでばたん、とドアが閉まる。慣れた部屋を、エルマーは眺めた。さっきまでは当然のように自分のものだと思っていた場所が、どこか余所余所しく感じる。手に持った服のせいかもしれない。
エルマーは服をベッドの上に投げた。
「おい」
振りかえると、ゾロは相変わらず不機嫌そうな顔をして、エルマーを見ている。
「なに」
「あのばあさんの意図くらい、おまえはわかってんだろ?」
エルマーはきっとゾロを睨みあげた。一瞬で、怒りが腹の底に満ちる。
「ああ、わかってるよ! あんたに言われなくても、わかってる!」
ティエラとは半年も一緒に暮らしたのだ。短かかったような気もするが、彼女の嗜好も、行動パターンもおぼえるには長いくらいの期間だった。
「ティエラは、おれが罪悪感もなく出ていけるようにしたかったんだろう? 一人で残るといえば、絶対におれがごねると思ったんだ。だから、息子さんを呼んで一緒に暮らすと言ったんだ。むしろ、おれなんかいらないと突き放すために。おれが何のしがらみもなく出ていけるようにだ! ああ、全ておれのためなんだろ!」
ちくしょう、とエルマーは呟いた。八当たりだとわかっていた。
「おれには何も選ばせてくれないんだ……」
エルマーは両手で顔を覆った。ぐらぐらと足元が揺れるような気がした。信じていたものはなくなった。ティエラがいてくれたから、エルマーは過去が無くても安心して暮らせていたのに。それがすっぽりと消えうせた。深く深く、どこまでも落ちて行きそうな気がした。
ティエラが一言、一緒にいたいと言ってくれれば。たとえ血がつながっていなくともずっと一緒にいるのに。
その機会すら奪われてしまった。他ならぬ本人の手によって。
「おれは、いったい誰なんだ……」
エルマーは失ってから初めて、自分に問いかけた。
おれは誰なのだろう。
きつく目を瞑っていると、両手首を握られて、無理やり顔から離された。何をするんだと抗議する間もなく、エルマーは両腕ごと強く抱きしめられていた。
「な、なに、」
驚いて目を見開いたが、見えるものは入ってきた扉だけだった。熱いとも言える体温が、エルマーに伝わる。
「てめえはコックだ。おれたちの船の。それだけは信じろ」
短い言葉で、ゾロは言った。
コック、とエルマーは呟く。馴染みのない単語だと思った。船。船ということは、海へ出るのだろう。
「おれは、海に行けない」
「いいや、お前は海が好きだ。おれたちの中で一番海が好きだった。海に落ちたくらいで、嫌いになるはずがねえ」
ゾロはきっぱりと断言する。
頬に当たるピアスが痛い。抱きしめる力は強く、反対にエルマーの体からは力が抜けていく。
海が好き。という言葉が頭の中で回る。近づけないけれど、エルマーは窓辺の特等席から海を見ることが好きだった。
あんたはいつも海を見るね、とティエラに呆れられていた。
寄れば体が拒否をするけれど、海を眺めていると心は穏やかになっていた。
そうなのだろうか。とエルマーは思った。
おれは、海が好きだったんだろうか。
そうだったらいいのに、とエルマーは思った。
ゾロの手は緩まない。エルマーはだんだん眠くなってきた。力が抜けた手をそっとゾロの背中に回して、エルマーは意識を手放した。
「なんだこれ」
目が覚めて、エルマーは茫然と目の前の壁を見上げていた。いつもと変わらない、自室での目覚めだった。ちょっと視線を上げれば、窓が見える。カーテンから朝日が漏れている。
けれど、体が妙に窮屈だと感じて振り向けば、なんと背中からゾロに抱え込まれたままだった。しっかりと腹の辺りでホールドされていて、逃げ場もない。
「おい、こら。状況説明を求める」
肘で背後を小突くと、「んん」と声が漏れた。息がエルマーの首にかかって、ぞくりと背が粟立った。やばいやばい! と妙な危機感を覚えて、エルマーは腹に回された手を解きにかかった。しかし、眠っているはずなのに、しっかりと組まれたまま、一向にはがれない。
「くそっ、おれにそんな趣味はねえぞ」
過去はわからないが、今はとにかくない。過去にもなかったと信じたい。
一人焦っているエルマーをよそに、ゾロは寝入ったままぴくりとも動かない。
あー、もう、なんだこの状況、とエルマーは抵抗を止めてため息を吐いた。
健康的な寝息がすぐ側で聞こえてくる。こんなに他人と密着して眠るのは初めてで、それに違和感がなかったことが少し恐ろしい。そうして、存在をすんなりと受け入れている不思議について思った。
カーテンの隙間から洩れてくる光を見ながら、エルマーは決心を固めた。
二度寝してしまったあと、やっとのことでゾロの腕から抜け出して、エルマーは部屋の中を見回した。
私物と言えるものはない。テーブルの上には、ティエラから借りていた本と、昨日渡された服があった。少しだけ迷ってから、エルマーはそれに袖を通した。
普段、緩めのシャツをズボンという格好だったので、スーツなんて堅苦しい物は居心地が悪いだろうと思った。しかし、そんな自分の予想に反して、袖を通したシャツは、エルマーにぴったりだった。
思ったほど動きにくくなく、むしろしっかりフィットしている。ジャケットも同じだった。上下黒のスーツを着込んで、エルマーはティエラから借りた本を手に取った。まだ最後まで読み終わっていなかった。
「コック?」
「ああ、起きたのか」
あれだけエルマーが動き回っていたというのに、ゾロは全く起きる気配がなかった。やっと起きたかと振り返れば、ゾロはわずかに目を見開いていた。
「その服、昨日のか」
「ああ、着てみたんだ。変か」
「いいや」
なぜか、ゾロは深くため息をついた。それからがしがしと頭を掻く。
よっ、と声を上げて起きあがると、エルマーの目の前に立った。同じように、がしがしと頭を乱された。
「何するんだ」
「なんでもねえよ。行くか」
さりげない口調だった。エルマーが抵抗を覚える隙もないくらいの。
先に部屋を出ていくゾロの背中を追って、エルマーはダイニングに入る。ティエラは、まるで昨日からずっとそこにいたかのように、同じ姿で座っていた。
「おはよう、ティエラ」
「ああ、よく眠れたかい」
「うん」
「そうかい」
ティエラはそっと目を伏せた。
「ティエラ。この本、ありがとう」
持っていた本を差し出すと、ゆるく首を振られた。
「まだ読み終わってないんだろ? 持ってきな」
「いいの?」
「いいよ」
「……ありがとう」
素直にもらうことにして、エルマーはスーツの内ポケットに無理やり本をしまった。
「じゃあ、おれは行くよ。今までありがとう、ティエラ」
「ああ」
ゾロを促して、エルマーはダイニングを出る。
扉を開けると、真っ青な空が見えた。眩しくて目を眇める。
「行くぞ」
ゾロが呼びかけてくるのに頷いて、エルマーは一歩踏み出した。
「元気でやんなよ、サンジ」
振りかえると、ティエラが戸口で笑っていた。いつものように、少し意地悪そうな笑みで。
ティエラによって、エルマーは『サンジ』になった。
「さようなら、ティエラ」
震える唇を噛み締めて、サンジは歩き出す。もう振り返ることは出来なかった。下りの緩やかな坂を下りて行くたびに、ティエラと過ごした半年のことが脳裏に蘇る。
起きられない自分のために、本を読んでくれた。リハビリで散歩をした。裏の畑で野菜を作った。町へ買い物へ行って、たまに買い食いをした。仕事をしてもらった給料で、少し豪華なシチューを作ってもらった。そういう全てが。
「泣くな」
ゾロはサンジの頭を少し強く叩く。
「痛い」
「あのなあ、あのババアのことを考えるのもいいが、ちったあおれたちのことも考えろ」
少し怒ったような口調で、ゾロは言う。サンジは流れる涙を袖口で拭った。
「この半年、探しまわったあいつらのことも、てめえは考えるべきだ」
サンジは涙をのみ込んだ。ティエラとの半年を楽しんでいる間に、彼らはどう過ごしていたのだろう、ということに初めて思い至った。
もし本当に、本当に自分がサンジで彼らの仲間だというのなら、それを否定することはとても失礼なことなのかもしれない。
「お、いるな」
ゾロの声に顔を上げると、大通りの入口に彼らが立っていた。
麦わらと、赤毛の少女。黒髪の美女に長い鼻の少年。トナカイはサンジのように泣いている。
「サンジィーー! 行くぞーーー!」
麦わらが叫んだ。
「だとよ」
ふん、とゾロが笑って彼らの方へ歩いていく。
サンジはまた一歩歩き出した。不思議と、気分は悪くならない。もう、海にかなり近づいているというのに、あの発作がやってくる気配は微塵もなかった。
それを嬉しく思っていいのか、悲しめばいいのか、それすらもまだわからない。
まだ自分は、彼らのことを何もわからない。誰も知らない。
「サンジくん!」
「コックさん」
「サンジ!」
「サンジィィィィ!」
次々に呼ばれる名前に、サンジは苦笑する。涙が乾いて、少し頬が引きつれた。
潮の香りが、濃くなっていく。それを胸一杯に吸い込みながら、サンジは最後に後ろを振り返った。
ティエラの家はほとんど見えなくなっていた。しかし、煙突からゆるゆると煙が上っているのが見える。
サンジは眩しげに目を細めた。
今頃、彼女はきっとシチューを作っている。
第一部終了
2009/08/28