Nobody Knows





第一部


4

「ただいま」
 扉を開けると、ひんやりとした空気が内部から流れてきた。
「ティエラ?」
 無愛想でも無口でも、必ず挨拶の言葉だけは怠らない彼女の声が聞こえてこない。
「……畑かな?」
 家の裏手にある、小さな畑に行っているのかもしれない。売る目的ではなく、自足するための菜園だ。
 扉を閉めて裏手に回ってみるが、ティエラの姿はなかった。ちらほらと熟れたトマトが見える。食べごろだから、そろそろ収穫しなくてはならない。
「じゃなくて」
 トマトよりもティエラだ。
 どこに行ったんだろう、とエルマーは畑を超えて裏の林まで足を向けてみた。たまにキノコを採りに行くから、それかもしれないと思ったのだ。しかし、いつも見回っている箇所に、ティエラの姿はなかった。
 林の中で立ち止まって、エルマーは眉を顰めた。
 嫌な予感が背筋をじわじわと這いあがってくる。
 普段、彼女はほとんどで歩いたりしない。たまに外出するときは、エルマーが必ず付き添っていた。それは、自分が動けるようになってから一度も破られたことはない。
「いったいどこに」
 もしかしたら寝ているのかもしれない。そう願いをこめて、そっと寝室を覗いても見たが、彼女のベッドは冷たくなっているだけだった。
 ――眠っていた痕跡もなく。
「……ティエラ?」
 嫌な予感が現実になりそうだったが、町へ行ったのだという可能性をエルマーはなんとか頭の中から見つけ出した。
 もしかしたら、宿へ自分を迎えに行ったのかもしれない。今頃、宿屋の主人にぶつぶつと文句を言っているのかもしれない。
 エルマーは家を飛び出して、山道を駆け下りた。普段は景色を眺めながら、近づいてくる海を正面にゆっくりと降りていくのだが、今はそんな余裕がなかった。
「お、エルマー、今日は郵便配達かい?」
「違うよ! あ、ティエラ見なかった?」
 途中で、山道を登ってくる知人に声をかけられて、エルマーは尋ねた。
「町から来たけど、見かけなかったなあ。なんだ、いないのかい? 散歩してんじゃないの?」
「うん、そうかも。もし見かけたら、おれが探してたって伝えてくれるかな? 家に帰っててくれって」
「ああ、わかったよ」
 エルマーの雰囲気で、知人は察してくれたようだ。少し心配そうな目で見返されて、大丈夫だと頷く。
「よろしくね」
 手を振って、再び駆け出す。
 朝来た道を三分の一の時間で駆けて、エルマーは宿屋を開けた。
「おやっさん!」
「お、なんだ、びっくりさせんなよ」
 扉はゆっくり開いてくれ、と続ける文句を遮って、エルマーは言った。
「ティエラ、来てる!?」
「ばあさんか? 来てないが?」
「ほんとに?」
「嘘ついてどうするよ」
 エルマーは、カウンターに手をつけて、うずくまった。
「おーい、大丈夫か?」
 荒い息を整えながら、エルマーは忙しく考える。ここじゃないならどこだろう? どこかへ買い物へ行ったのだろうか? こんなに朝早く? 店が開くにはまだ早い時間だと言うのに。
 疑問が浮かんでは、それに自分で否定する。
「ばあさんがどうしたんだ?」
 エルマーの様子から、店主は声を改めて聞いてくる。
「……家に帰ったけど、いなくて。外出するときは、いつも、おれが一緒、だったのに」
 途切れ途切れに話すと、店主はカウンターから出てきた。
「こんな町で物騒なことはないと思うが、一応駐在に連絡しておこう。ちょっと待っとけ」
 言い置いて、店主は外へ行く。
「おい、どうした」
 頭上からの声に顔を上げると、緑頭の剣士が立っていた。眉をしかめてエルマーを見下ろしている。
「ティエラが、」
 と、流れで語ろうとしたところで、エルマーは口をつぐんだ。彼らは町の人間ではないということを思い出した。こちらの事情を告げても仕方がない。
「何でもない」
 立ちあがって剣士を見ると、目線が同じ位置にあった。昨日は気づかなかった。何が面白くないのか、不機嫌そうな顔をしている。
 緑頭の観察をしている暇はないので、エルマーは踵を返した。走りっぱなしだった足が少しもつれたが、扉を開けて外へ出る。
「おい!」
 背中から声が聞こえたけれども、エルマーは無視をした。
 宿屋を出てから大通りへ戻る。店がちらほらと開店準備を始めている。馴染みの肉屋のおかみを見つけて、エルマーは駆け寄った。
「おばさん、ティエラみなかった?」
「え、おばあちゃん? 見てないけど、どうかしたの?」
「そう。ありがと。見かけたらおれが探してたって、伝えてくれる?」
「いいけど、ってエルマー?」
 返事を聞いている途中でエルマーは走り出す。
 嫌な予感が背中にこびりついたまま、とれなかった。それはエルマーに寒気をもたらしている。
 町中で空いている店にすべて聞き込みをしたが、誰もティエラを見かけていないようだった。
 一緒に探そうか? と申しでてくれる人もあったが、エルマーは断った。
 なんとなく、自分が見つけなくてはいけないのではないか、という気がしていた。
 町外れの配達所が最後だ。中を覗けば、所長が郵便物をより分けている。
 所長、と呼びかけると、彼は作業を中断した。
「なんだエルマー。今日は当番じゃねえだろ」
「ごめん、ティエラ見なかった? 探してるんだけど」
「ああ? あのばーさんか? いや、俺はずっとここにいたからな。見てねえぞ」
「……そうか」
 戸に手をつけたまま、エルマーはずるずるとしゃがみ込んだ。
「おい、どうした」
「ごめん、ちょっと、休憩さして」
「ばーさんと追いかけっこでもしてんのか?」
「そんなとこ」
 所長の呑気な声に、エルマーは少しだけ笑った。
 笑うと、心配しているのがただの杞憂にすぎないのではないかと思えてきた。少し散歩をして、今頃家に帰っているのかもしれない。
 そんな気もしてきて、エルマーは一度家に帰ろうと思った。
「あれ、ばあさんなら、朝見たよ」
 その時、手紙の入ったかばんを受け取っていた配達員が言った。エルマーとも顔なじみの少年だった。
「どこで?」
「朝来る途中の道だから。北へ向かう一本道で会ったな」
「……北?」
 北への道、ということはいつも配達するあの道しかない。北の町へ伸びていく道。
「北へ用事があんのか、ばーさん。おい、徒歩か?」
 所長も訝しげに、配達員へ問う。
 普段、徒歩で行き来する町だけれども、老人が踏破するには起伏が多い道だった。
「そうだよ。馬車なんて運行してない時間だし」
 そこまでわかっていて、何で疑問に思わない。とエルマーは怒鳴りそうになったが、唇をかみしめてこらえた。相手は少年なのだ、と自分に言い聞かせながら。この少年がここへ来る途中だったというのなら、そう時間は経っていないはずだった。今から追いかけても間に合うだろう。
「所長、邪魔してごめんな! ありがと!」
 深呼吸してから立ち上がると、少したちくらみがした。
 ふらつきながらも、配達所を出ると、
「どこへ行く」
 ドアの横に、緑頭の剣士が立っていた。エルマーは驚いて足を止めてしまった。
「あんた、なんでいんの?」
「目の前で血相変えて出ていかれりゃ気になる」
「そんな親切そうな奴には見えないんだけど」
「何もかもすっかり忘れてるくせに、そういう失礼なところは変わらねえんだな、てめえは」
 ふん、と鼻で笑われて、エルマーはむっとした。
「だから、おれはあんた達が探している人とは違うって。何度言ったらわかるんだ」
「お前は知らないだけだ。おれたちにはわかってる」
 緑頭の剣士は、腕組みをしたまま、じっとエルマーを見てくる。まっすぐ人の目を見る奴だ、と思う。少しは逸らしたりするものなのに、不躾と言っていいくらい、まっすぐ逸らさない。
 鳶色の目をしていた。頭は変な色をしているくせに、瞳の色はきれいだった。
「おまえは、あいつだ」
 決めつけるような言い方だったが、エルマーは反論しなかった。
 エルマーがティエラを信じたいように、彼らも自分たちの願望を信じていたのかもしれない、と思ったからだ。それほどに、剣士の目は真剣でまっすぐだった。
 だから、否定はせず、エルマーは視線をそらして歩きはじめた。今自分にとって大切なのは、ティエラなのだ。
「おい、どこ行くんだよ」
「おまえには関係ない」
 言い捨てて走りだすと、背後から足音が追ってきた。
「ついてくんなよ!」
「うるせえ、おれの勝手だ」
「どんな勝手だ!」
 怒鳴り返しても、剣士はついてくる。話しながら走ったのでは体力を消耗してしまうので、エルマーはぐっと耐えた。どうしてだろう、この剣士を前にすると、やけに突っかかってしまう。
 最初にあんな格好で連れ去られたからかもしれない。
 こいつは動物。緑色の犬っころがついてきてるんだ、とエルマーは無理やり納得させた。随分とでかくて不遜な犬だ。
 町を抜ければ、すぐに北へ続く緩やかな道になる。しかし、それはしばらくすると酷いアップダウンが続く。そのあたりで疲れて休んでいてくれればいい。
 常の配達時の速度よりもかなりスピードをアップしてかけていく。さすがに坂に入ると息が切れた。体力は大分回復していると思っていたが、走り続けるとなると勝手が違う。ちょっとだけ、と立ち止まり、膝上に両手をつけて休憩する。暑さのせいもあって、頭が少し霞がかっているようだった。自分の荒い息が、少し遠くから聞こえる。
「だらしねえな」
「うる、さいっ」
 こめかみから垂れる汗を手の甲で拭って、エルマーは前を見上げた。
 走り続けては体力を消耗してしまう。エルマーは速度を落として、歩き出した。
 



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