Nobody Knows





第一部


3

 ひたり、と額に冷たい感触があって、エルマーは目を覚ました。
「あ、気がついた! 大丈夫かサンジ。痛いところはないか?」
 サンジ。だから、誰なんだそれは。おれの名前ではない。名前ではないはずだけれども、妙に耳に馴染む気がした。呼ばれているのに違和感がないというのは面白い。
 エルマーはのろのろと手を上げる。額に手をやると、冷たい布に触れた。
「しばらく、冷やした方がいい。熱があるんだ。安心しろ、おれは医者だから」
「……ここは、どこだ?」
「宿屋の中だよ。貸してもらってるんだ」
「そうか」
 悪いことをした、と店主の顔を思い浮かべて謝る。市の立つ日は稼ぎ時のはずだ。北からくる人々でいつもにぎわっている。一室を占拠しているのを悪いと思った。
 目線だけ動かして声の主を見ると、あの珍妙な生き物が枕元に座っていた。ピンクの帽子から角まで生えている。言葉は喋るし、看病する手つきも危うげなところはない。
「君はたぬき? 鹿かな?」
「トナカイだっ!!」
 力強く言われて、エルマーは笑った。
「悪かった。トナカイか。かわいいな」
「そ、そうか? 褒めてもなんも出ねーぞコノヤロウっ」
 悪態をつきながらも、トナカイはにこにこしている。子供らしい天の邪鬼っぷりに、エルマーも笑みがこぼれた。
「……んで、かわいいお医者さん。おれは倒れたんだよな?」
 じっと目を見ると、トナカイも真顔になって頷いた。
「そうだよ。症状としては過呼吸に近い。よくあるのか?」
「よく、はないけど」
「何回かはある?」
「倒れたのは一度な。海に近付くとなるんだ」
 ふう、とため息をつく。だから、降ろせと言ったのに、と強制的に担ぎあげた緑頭を恨む。
「海に?」
「そう。まあ、たぶん海で死にそうになったからだと思うんだけど」
「普段はどうだ? 海を見ただけで吐き気がするとか、気分が悪くなるとか、めまいがするとか、耳鳴りがするとかないか?」
「見るだけなら大丈夫だな。むしろ、毎日見てるし。怖いとは全く思わないんだ。ただ、近づくと動悸が激しくなる。そもそも足が動かなくなる」
「深層心理の方か……」
 うーん、とトナカイは腕を組んだ。真剣に悩んでいるようだが、姿はとても可愛い。毛皮に触っちゃだめかな、とエルマーは思ったが、言葉は違う内容を伝える。
「悪い、店主のおっさんに、ティエラに連絡するよう頼んでもらえるか? おれは大丈夫だからって」
「それなら、頼む前に伝えてくれてたぞ。今日はもう遅いから、明日連れて帰るってことで落ち着いてる」
「そうか」
 エルマーはほっと安堵のため息をついた。心配をかけてしまっただろう。今頃、あの家の中で一人食事をしているのだろうか。部屋の中はとっぷりと暗い。ティエラが背中を丸めている姿が瞼の後ろに浮かんだ。夕飯を二人分作ってしまっているだろうから、明日の朝食べないと。ティエラお得意のシチューがいいな。
 目を閉じると眠くなってくる。エルマーはそのまま睡魔に身を任せた。



「……じゃあ、強制的に船に乗せるってわけにもいかないわね」
 再び意識が浮上してくると、耳にそんな言葉が聞こえた。直感的に、自分のことを話しているのだとわかる。エルマーは目を開けずに、聞き耳を立てた。この声は、赤毛の少女だろう。確かナミと言った。
「自覚していないってのが怖いんだ。人は無意識下のことはコントロールできないから」
「どうすればいいのかしら、船医さん。何か解決方法はない?」
「恐怖の源をなくすことだけど……」
「おいおいチョッパー、海は無くせねーぞお」
「そうじゃないよウソップ。海が怖いっていう、その原因、根本を無くすんだよ」
「そうは言っても、サンジは記憶がねえんだろ? 怖い目にあった記憶もないのに、どうやって無くすんだ?」
「だから、まずは記憶を戻すことが先決なんだけど……」
「結局振り出し、前途多難ね。……せっかく見つけたのに」
「……落ち込むなよ、ナミ」
「落ち込んでないわよ。だって、生きてるんだもの」
「そうだよな!」
「そうだ! 生きていれば大丈夫だ! どんな病気だっておれが治してやる」
「ふふふ、頼もしいわね、船医さん」
「それにしても、記憶をなくしてるサンジくんって、なんか雰囲気かなり違うわよね。口調もそんなに悪くないし。誰にも笑顔全開だし」
「おまけに足癖も悪くねえぞ、こいつ」
「面白いわよね」
「ちょっと、いつもロビンはそれなんだから。面白がってもいいけど、同じくらい深刻になって」
「あら、ごめんなさいね」
 ふふふ、と密やかに少女たちが笑う。一応寝ているエルマーに遠慮しているらしい。
 『サンジ』という人間は、とても大切にされていたようだ。悪態はついていても、根底には気遣いと愛情があると感じられた。おれに似ているみたいだから、当然かな、と内心でエルマーは笑った。
 彼らには悪いけれど、自分は『サンジ』ではない。強引に連れ出されそうになったことへの不満は不思議と湧いてこない。むしろ、彼らの求める人間が早く見つかればいいと思う。
「おい、あんたたち、まだいたのか」
 ギィ、と木が軋む音と共に、店主の声がした。こちらも声は潜められているが、あまり効果はない。
「ほんとに、エルマーのことはそっとしておいてやってくれよ。全快したのはつい最近なんだ。それまでは動くこともできない重症だったんだからな」
「はいはい、わかってるわ。もう無理やり海には連れて行かないから」
「ほんとか?」
 疑わしそうな声を店主は出した。
「ほんとよ」
「本当に頼むよ。付き合いは浅いが、いい奴なんだ。ティエラの血縁とは思えないくらいになあ。あのばあさんも悪い奴じゃねえんだが、愛想がない」
「確かに、愛想のかけらもなかったわね」
「でも、あのばあさんが献身的に看病したおかげなんだぞ。家の貯え全部使って、エルマーの治療費にあてたんだ。発見したのもばあさんだしな。もし少しでも発見が遅かったら、手遅れだったそうだ。最初は医者も死体だと思ったぐらいだからな」
 だから、と店主は続けた。
「あんたらが、こいつとどういう知り合いかしらないけどな、かき回すのはやめてくれ。結構仲良く暮らしてんだ」
 しばらく、場は無言になる。ドアが閉まる音が聞こえた。ベッドがつけられている壁の向こうから、階段を下りていく音も聞こえる。
「かき回してんのはどっちだって言うのよ」
「お、怒んなよォ、ナミ」
「怒ってない!」
「いやいや、十分怒ってるだろソレ!」
「静かにしろよお前ら」
「コックさんが起きてしまうわ」
 もう起きているとは言えないので、エルマーは引き続き眠った振りをした。
「ふん、あたしたちを誰だと思ってんの? 欲しいものはとことんまで奪うだけよ」
「海賊だもんな!」
「そうよ、チョッパー。だから、奪う前準備をすすめましょ。さ、具体的な作戦立てるわよ。十分後に男子部屋集合ね」
 ラジャー、わかった、了解、と声が上がって、空気が動く気配がした。部屋を出ていくのだろう。エルマーはほっと息をついた。なんとなくこわばっていた手足を緩める。
「……たぬき寝入りしてんじゃねえぞ」
 最後にそんな声が聞こえて、エルマーは目を開いた。ドアが閉まるのが見えた。
「……あちゃー」
 あの剣士にはすっかりバレていたようだ。



 次の日には、すっかり体が良くなっていた。熱もうそのように引き、だるさも残っていない。半年前は熱を出しては寝込んでたのだから、随分丈夫になった。ひとり満足しながら、エルマーは店主がいるカウンターへと向かった。
「お、エルマー。大丈夫か?」
「ああ、問題ないよ。ごめんな、一室占拠しちゃって」
「構わねえよ。ツケとくから」
「ツケかよ」
 そうはいいつつも、おまけしてくれるんだろうなあ、とエルマーは苦笑した。お金はきっと受け取ってくれないだろう。
「次の市の日に手伝うからさ、それでチャラにしてよ」
「仕方ねえなあ」
「んじゃ」
「ばあさんによろしくなー」
 手を振って宿を出ると、薄く青い空が広がっていた。今日も良い天気だ。最近はずっと晴天が続いていて気持ちが良い。
 宿の前で少しだけ立ち止まって、エルマーは振り返った。
 一言だけ、あのトナカイにお礼を言いたかったのだが、彼らはどこにもいなかった。部屋の位置も知らないのだから、当然なのだけれども。
 仕方ないので、使わせてもらっていた部屋の枕元に、一言お礼を書いておいておいてきたが、彼は気づくだろうか。
「悪いやつらではなかったな」
 いろいろと勘違いされ振り回されたが、面白い集団だった。一緒にいるとなんとなく気分が高揚した。そういえば、同じ年ごろのようでもあった。黒髪の美女とトナカイは少し違うだろうけれども。緑の剣士も違うか? とエルマーは思った。なんだか年齢不詳なやつだった。
「さって、帰るか」
 少しの非日常を後にして、エルマーは歩きだした。  結局、アクシデントのせいで、人違いであることの説明はできなかったが、もう会うこともないだろう。なんだか計画を立てるようなことを言っていたが、しばらく町に立ち寄らなければよい。  自分の日常は、あの山の上にあるのだ。




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