Nobody Knows





第一部


2

 いつもよりも量が多かったせいで、帰ってくる時間がだいぶ遅くなってしまった。最後の方は走りながら、家路についた。
「ティエラ、ごめん、遅くなった」
 バタン、とドアを開けると、
「いいから帰っておくれ!!」
 とティエラの怒声が響いてきた。一瞬、自分に言われたのかと思って、エルマーは首を竦めた。
「いいわ、今日のところは帰ってあげる。けど、また明日来るわよ」
「何回来たって同じさ」
「そうかしら?」
 ふん、と笑って振り向いた少女は、あの赤毛の彼女だった。
「……なにしてんの、ここで」
「あら、おかえり」
「え、ただいま」
「エルマー、そんなとこに突っ立ってないで、さっさと夕飯食べちまいな!」
 どうして彼女がここにいるのかと問いかけようとしても、ティエラがそれを拒んでいるようだった。無愛想で無口ではあるが、人を突き放すことはしない人だ。珍しい、というより初めて見る態度に、エルマーは戸惑った。
「ティエラ、なんかあったの?」
「なんでもないよ。ほら、疲れてんだろ。お座り」
 横で、赤毛の少女が笑う声がした。
「また明日来るわ。じゃあね、おやすみ、エルマー」
 エルマー、の部分を幾分か強調して少女は出ていった。エルマーにはいったい何があったのかわからない。
 振りかえれば、ティエラは疲れたように椅子に腰かけていた。背中がいつもより丸くなって、老けこんだ印象を与えた。
「大丈夫かい、ティエラ」
「ああ、なんてこたないよ。夕飯済ませちゃいな」
「うん」
 話すつもりはないようだった。エルマーは問いただすことをあきらめて、台所に立ち、用意されていたシチューを温め直した。
 濃いミルクの香りがたちのぼる。好きなメニューであるのに、ティエラの様子が気になって、心は沈んでいくばかりだった。
「あいつら、朝会ったのかい?」
 よそったシチューを持って、真向かいに腰を落とすと、ティエラがぽつりと聞いてきた。
「うん、配達出る前に。まだ、おれを『サンジ』ってやつだと思っているみたいだ」
「そうかい」
 ティエラは同じ姿勢のまま、エルマーと目を合わせようともしない。その姿に不安を覚えて、エルマーは口を開かずにはいられなかった。
「なあ、おれはエルマーでいいんだよね?」
 ティエラははっとしたように顔をあげた。エルマーを見上げてから、その視線は逸らされた。
「そうだよ、あんたはエルマーだ」
 逸らされた視線のわけまでは、問うことができなかった。
「だよね」
 と安堵したように笑って、シチューをすすった。いつもは美味しいと感じるシチューは、あまり味がしなかった。
 ティエラはすぐに寝床へ引っ込んでしまい、エルマーは窓辺に近づいて、外の風景を眺めた。
 目覚めた初期のころは、この窓辺がエルマーの定位置だった。記憶の問題だけでなく、海に落ちた時の衝撃は、ずっと体に根をおろしていた。
 細かい傷はすぐにいえたけれど、背骨を痛めたようでしばらくは起きあがることもできなかった。やっと立ち上がることができてからは、この窓辺で一日を過ごした。山の中腹にあるおかげで、ティエラの家からは、町が一望できる。そして、その奥にある海も。
 穏やかな街並みと、海、水平線。一枚の絵のように穏やかな風景だった。
 今見下ろす町には、ぽつぽつと灯がともっている。海は空の闇に溶け込んでいて見えない。
『昔から、あんたは海を見るのが好きだった』
 と、いつかティエラがぽつりと言っていた。彼女がエルマーの過去について言及したのはそれが最後だった。
「それは、本当におれなんだよね、ティエラ」
 眠っているであろうティエラに聞こえないように、エルマーは呟いた。
 昨日は笑い飛ばせていた出来事のはずなのに、のどにひっかかった骨を相手にしているように、もやもやといらだちがこみ上げてくる。
 目を逸らされた。あの場面が脳内でくるくると回っている。



 とにかく、はっきりさせるべきだ。
 エルマーの良いところは、必要以上に落ち込まないことだと自分でも思っている。落ち込んでいるというのはとても不経済だと思う。まったくもって生産的ではない。それならば、あたって砕ける方がいい。あきらめもついて、また最初からやり直すことができる。
 記憶を失ってから、ずっとそう思って暮らしてきた。
 ティエラには、町で頼まれた仕事があると告げて、家から出てきた。エルマーの嘘を見抜いているのかもしれないが、彼女は「そうかい」と言っただけだった。
 相変わらず表情は読めないが、いつものように飄々とした彼女に戻ったようだった。それに少し安心する。
 午前中の澄んだ空気が、海から山へと吹き抜けてくる。わずかな潮の香りを嗅ぎながら、エルマーは町へと下りた。
 今日は市が立つ日だったようで、いつもより人が多い。
 この島は、比較的近い島とやり取りがある。交易と呼ぶほどではないが、こうして週に一回、特産品を載せて行き来する。北の町からも市を目当てにやってくる人もいるので、それなりににぎわっている。
 市は港から直結の大通りに広げられている。さすがにいつもより人が多く、エルマーは誤算だったかな、と首をかしげた。
 とりあえず、あの奇妙な集団を探そうと思ったのだが、この人ごみの中では難儀しそうだった。小さな町なので、そう時間はかからないだろうが、午前中に再会を果たすのは難しそうだ。
 エルマーは、とりあえず町で唯一の宿屋に向かった。市から路地ひとつ入ったところにある宿屋をくぐると、顔なじみの店主がカウンターに立っていた。
「お、なんだエルマー。うちに用事か? 珍しいな」
「おはよ、おやっさん。ちょっと聞きたいことがあってさ」
「なんだい」
「昨日か一昨日から、妙な6人組が宿泊してないかな」
「あ? 客なんてみんなどっか妙だぞ?」
「おーい、接客業だろー? お客様にそんなこと言っていいの」
「いいんだいいんだ、俺のは愛情こもってるから」
 にやっと笑って、店主はまあすわれ、と目の前を指差した。
 カウンターの前には一つだけ椅子が置かれている。
「長居するつもりはないんだ」
「いいから座っとけ。そいつらに会いたいんだろ? さっき市に出てったから、しばらくすりゃ戻る」
 やはりここに泊まっていたらしい。的中したことに、エルマーはほっと溜息をついた。
「なんだ、知り合いか?」
「なのかなあ」
「なんだそりゃ」
 はっきりしない答えに、店主も眉をしかめる。
「なあ、おれって、ティエラの血縁でいいんだよな?」
「そう聞いてるが?」
「誰だったら、おれについて知っているのかな」
「そりゃティエラばあさんだろうが。当たり前だろ。町のもんはみんなあのばあさんから、お前のことを聞いてんだから」 「でも、おれはちょっと前まで隣島にいたんだろ? ティエラですら、それ以前は知らないはずだ」
「まあなあ」
 店主は腕を組んで唸った。困ったように顎髭へ手を伸ばす。
「隣島に行けば、お前を知っている奴らもいるかもしんねえな。しかし、どういう心境の変化だ? 過去は別に思い出さなくてもいい、が信条だったんじゃねえのか」
「いや、そうだったんだけど」
 それは勿論今後も変わらないはずだった。しかし、ティエラはどうやら何かを隠しているようなのだ。自分のことに関して。それははっきりさせておかなければならない。これからも一緒に暮らしていきたいからだ。そのためには、少しばかり過去を知るのもいいだろうと、昨夜エルマーは心に決めていた。そして、あの赤毛の少女に会ったら、人違いであることを納得してもらうよう、話すつもりだった。
「そんなに知りてえなら、隣島行ったらどうだ? お前、あっちから流れてきたんだろ?」
「そうだけどさ、ほら、おれは」
「……ああ、そうだったな」
 悪かった、と店主が言葉を繋げている時に、
「なるほどね、隣島!」
 と明朗な声が聞こえた。
「おかえり」
 店主がエルマーの背後に声をかける。聞き覚えのある声だと思って振り返ると、予想に違わず探し人が立っていた。入口に立ってこちらを見ていたのは、赤毛の少女と黒髪の女性、そして鼻の長い男、緑の頭の男だった。他の二人はいない。
 目的の人間にあっさり会うことができて、エルマーは少し拍子抜けした。 「こんにちは、エルマーさん」
 黒髪の美女が笑いかけた。
「こんにちは」
 会釈交じりに挨拶すると、赤毛の少女がずかずかと歩いてきて、カウンターに手をついた。昨日は動きやすい普段服だったのが、今日は白いワンピースを着ている。ほんとにかわいい子だなあ、とエルマーは感心した。
「ねえおじさん? この人、隣島から来たの?」
「あ? ああ、出身はそうだな。実際流れてきたしな」
「は? 流れて?」
 長い鼻の男が素っ頓狂な声を上げる。
「嵐の日に海に落ちたようでなあ。海岸に打ち上げられてたんだ、こいつ。まったく、生きてたのは奇跡だよ」
 ははは、と店主は豪快に笑う。
「笑い事じゃないって」
「はっは、生きてるからこそ笑い事にできてるんじゃねえか」
 ばん、とカウンターが再び叩かれる。なんだ、不穏だなという表情で店主と顔を見合わせてから、少女を見上げると、彼女は対照的ににっこりと笑ってエルマーを見下ろしていた。
「隣島に行けばどうこうとか、さっき言ってたわよね? 隣島にはあなたのことを知っている人がいるかもしれないのね?」
「え? ああ、うん」
「行くわよ」
 背後に控えていた人たちに告げると、少女はエルマーの手首をつかんだ。
「え、ちょっと」
「つべこべ言わない! ほら、立って!!」
 抗い難いものを感じて、エルマーは立った。けれど、島には行けない。その事情を口にしようとしたところ、
「ゾロ」
 少女が名前を呼ぶ。返事もなく、緑の剣士がのっそりとやってきた。足取りは気が進まないという気配を隠そうともしない。
「ほっときゃ治るんじゃねえのか」
「ばかね、ほっといて半年よ。治ってないじゃないの」
「ったく、面倒かけやがって」
 最後の言葉はエルマーに向けられていた。鋭い眼差しとかち合い、エルマーは目を見開いた。
 何だろう、こいつは。島の人間とは違う。ひどく物騒な匂いがした。なんでこんな目で見られなくてはいけないのだろう、と戸惑っている間に、エルマーの体は浮いていた。
「ええっ!?」
「で、どこ行きゃいいって?」
「とにかく船よ」
「おいナミ、ルフィとチョッパーはどうすんだよ」
「あんたが残ってて、ウソップ。今日中に帰ってこられる距離だもの。どーせルフィは来ないわよ、市場での買い食いに忙しくて。ていうか、来られたら迷惑」
「あらあら、船長さんは仲間外れね」
 彼らが会話をしている間、エルマーは下してもらうともがき続けていた。腹部を肩に乗せられているせいで、自然と頭が下を向く。緑の頭に手を置いて起きあがろうとしても、手を離すことはできなかった。
「ちょっと、降ろしてくれよ!」
 エルマーは小さい方ではない。大の大人だ。細身だけれど上背はあるし、しっかり成人男性である。それを軽々しく抱え上げて、しかもよろめかずに平然と立っている。こいつは何なんだ、ともう一度思った。
「うるせえな、大人しくしとけ。あとでナミが怖えぞ」
「ナミって、あの赤毛の子?」
「そうだ」
「へえ、可愛い名前だ。よく似合ってる。……じゃなくて、降ろせ」
「断る」
「ゾロ、行くわよ」
 ナミというらしい少女の声が上の方から聞こえる。握力がもたなくなって、エルマーの頭はまた剣士の背中の方に垂れてしまった。間近に刀が見える。三本も差されている。どうやって使うんだろう、と少しの間現実逃避をした。
「ちょっと、お客さんたち、エルマーをどうしようってんだ?」
 さすがに不穏な事態を察したのか、店主がカウンターから出てくる。たすけて、おやっさん、とエルマーは心中で助けを求めた。
「悪いようにはしないわ。ちょっと借りていくだけよ」
「困るよ。ティエラばあさんは怒らせると面倒なんだ」
「今日中には戻るわ」
「エルマーは隣島へは行けないんだ」
「大丈夫、あたしたち、船持ってるから」
「そういう意味じゃねえんだ!」
 店主が大声を上げる。だんだんと声が遠くなっていき、ついには外に出てしまった。日差しが後頭部に降りかかる。
 どうやら、本格的に連れて行かれるらしいと悟って、エルマーは目の前の背中を殴った。
「降ろせ!」
 目一杯の力をこめて叩いたにも関わらず、男は何の衝撃もなかったように歩いていく。
「ごめんなさいね、コックさん。少しだけ付き合ってちょうだい」
 黒髪の美女の声が聞こえた。それでも、到底承知できるものじゃない。たらり、と知らずにこめかみから汗が流れる。常とは逆に、頭皮へと汗が伝っていく。背筋にざわりと逆立つような悪寒が走る。
 やばい、と本能が言っている。
 宿屋の位置は、港から近い。
「ナミ、どっちだ船は」
「そこを左に曲がって。……ってあんた、こんな直線距離でも迷うわけ」
「徹底してるのね」
「ロビン、感心しないで」
「そういえば、店主さんはどうしたの?」
「ウソップに止めてもらったわ」
 潮の匂いが強くなってくるのが分かった。
 鼓動も早くなり、エルマーは垂れた手を心臓の上に置いた。落ち着け、というようにぎゅっと押さえつける。それでも、鼓動は意思に反して大きくなっていく。別の生き物がいるかのように、どくどくと大きく存在を主張している。内部から圧迫されて、呼吸が乱れていく。空気を吸い込むことが苦しい。
「……は、う、」
「……くそコック?」
 浅く呼吸を繰り返しているエルマーに気づいたらしく、剣士の足が止まる。さかさまになっていた体が直される。地に足がついたが、膝に力がはいらず、そのままずるずると崩れ落ちる。
「おいっ」
 地面に付く前に支えられたらしい。目を開けると、緑の頭が見えた。その向こうに青空が見える。
「なに、どうしたの!?」
「わからねえ。いきなり呼吸が乱れた」
「サンジくん!」
 呼びかけてもらっているのは別の名だ。けれど、エルマーはその呼びかけに応えたいという気になった。
 心配させてごめん。
 おれは大丈夫。
 初めて目覚めた時の、ティエラを思い出した。彼女もひどく思いつめた目でエルマーを見下ろしていた。
『死ぬんじゃないよ』
 大丈夫、おれは死なない。
 ただ、海が怖いだけなんだ。
「おい、コック!」
 がくがくと揺さぶれる。返事をすることもできず、エルマーは意識を手放した。




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