Nobody Knows





第一部


「サンジ君っ!!」
 後ろから悲鳴のような声が聞こえて、彼は振り返った。何だろうと思っていると、声を発した人がこちらに駆けてくるのが見えた。綺麗な人だなあ、と認識した瞬間、その本人に飛びつかれて、彼は思わず目を見開いた。驚きが指先まで伝わって、持っていた荷物を落としてしまう。
「サンジ君、良かった……!」
 しかも泣いているようで、肩口に押しつけられた部分が温かく湿っていく。
「ザ、ザンジぃぃぃぃ!!」
 ついで、足もとにも何かが飛びついてきた。伝わった重さから子供かと思えば、何やら珍妙な生物がしがみついている。ピンクの帽子を被った鹿のような生き物だ。しかし、両足で立っている。青い鼻から鼻水を流して、涙まで流していた。
 なんだこれ、面白いなあ、とどこか他人事のように見ていると、今度は背中に衝撃があった。どうやら叩かれたらしい。
「サンジっ、良かった! 俺はもうダメかと!」
 振りかえる間もなく、目の前に移動してくる。鼻が長い少年だった。こちらも面白い顔をしているな、失礼だが思ってしまった。
「本当に、良かった」
 その後ろではオリエンタルな黒髪の美女が微笑んでいる。思わずにこりと笑い返してしまうくらい、綺麗な女性だった。
「だから言ったろォ? サンジは無事に決まってるって! おいサンジぃ、おれ腹減った! めしー!」
「おめえは開口一番それかよ」
 麦わら帽子を被った少年と、緑の髪の青年が立っていた。なんともバラバラな集団だ、と思った。
「ほんと、良かった」
 すがりついていた美少女が、目を腫らしながらも満面の笑みで彼を見上げてきた。綺麗な赤毛をしている。少女によく似合っていた。
 うーん、どうしよう、これは。
 曖昧に笑みを浮かべながらも、戸惑いは隠せない。良かった良かった、と口々に自分を見ては安堵している人たちを失望させるのは悪かったが、彼は口を開いた。
「ごめん、人違いだと思うな」
「は? 何言ってんだサンジ」
 鼻の長い少年が言う。
「おれ、サンジって奴じゃないよ。悪いけど」
「え、ちょっと、サンジ君?」
 赤毛の美少女が眉を顰める。
「こおら、エルマー!! 何油売ってんだい? さっさとしな」
「わかったよ!」
 馴染みの老婆の声に振り向いて叫んでから、エルマーは赤毛の少女に、そしてその周囲にいる人間を見まわして笑った。
「じゃあね」
 飛びつかれた拍子に落としてしまった荷物を拾い上げて、エルマーは彼らに背を向けた。
「は? エルマー?」
 という声が聞こえた。



「知り合いかい?」
 エルマーを待っていた老婆は、彼の背後を見ながら言ってきた。
「違うよ、ティエラ。人違いみたいだ。おれとは違う名前を呼んでいたから」
 老婆を見下ろして、エルマーは苦笑する。いきなりのことだったので、自分でもまだ少し驚いていた。あんなに力強く飛びかかられ、泣かれ、嬉しそうに笑顔を向けられたのは初めての経験だ。人違いだと告げるのが申し訳ないくらいだった。
「へえ、お前をなんて呼んだんだい?」
「確か、サンジ、だったかな」
「ほう、サンジ、か。いい名前じゃないの」
「ティエラが褒めるなんて珍しいな。今日は雨が降るんじゃないか」
「失礼なガキだね、あんたは」
 笑いながら、ティエラはエルマーの背を叩いた。
「あ、ほら、やっぱり」
 空を示すと、雪がちらりと降ってきていた。
「珍しいことをするからだ」
「言ってな」
 笑いながら、二人は山を登りはじめた。
 家に着くころには、すっかり先ほどの出来事を忘れていた。



 エルマーには、半年から前の記憶がない。
 気がついたらティエラの家で寝ていた。目覚めた時のことは、実はよく覚えていない。思いだそうとしても、おぼろげな形は見えるものの、その先ははっきりと意味をなさないのだった。霧の中を手さぐりで歩くことに似ているかもしれない。
 その時には記憶はすっからかんで、自分が誰なのかも、ここがどこなのかも、看病をしているティエラが誰であるのかもわからなかった。
 しかし幸いなことに、ティエラがいたおかげで、エルマーはひどく取り乱すということはなかった。
 彼女曰く、エルマーはティエラの血縁であること。先日の嵐の中で海に落ち、重傷を負ったのだと。そのためにずっと昏睡状態が続いていたこと。落ちたときに頭を打ったのか、記憶がかけているのはそのせいかもしれない。相槌を打つ力もないエルマーに、ティエラは現在の状況とエルマーの過去を、つらつらと語ってくれた。
 ティエラは無愛想な老婆だった。けれど、不安をにじませるエルマーの手を一度だけ握って言ってくれた。
「ここはあんたの家なんだ。安心おし」
 その一言で、エルマーはすっと心が軽くなった。実際、自分でも本当に不思議なのだが、記憶がないということで苦しむことはなかった。
 普通はもっと取り乱したりするのかもしれない。
 しかし、ティエラは無口で、記憶がないエルマーに対しても平静で接していた。本当は動じていたのかもしれないけれど、表面にはまったくあらわれていなかった。そんな彼女につられて、自分もすぐに現状を受け入れた。
 ティエラの家は町から離れた山の中腹にあったから、普段は町民と接することはない。ティエラは町の人間にいつの間にか話していたようで、はじめて下りた時には、彼に記憶がないことを知っていた。それ以来、この町の人々は、なにくれと着る物を分けてくれたり、この島のことを教えてくれたりした。親切にずっと甘えていることもできず、エルマーはやがて町の仕事を手伝うようになった。
 最初は些細な仕事をしていたのだけれど、体が完治した三ヶ月前からは、配達人をしている。この島は南と北に大きな町が分かれていて、人の行き来も多い。手紙を出し合う習慣が、ほかの島よりも濃くあるようで、配達員の数はいつも足りない。
 エルマーは週に三回、その配達員をしている。
 朝に家を出て、着くのは昼頃、配り終えてこちらに戻ってこられるのは日暮れ前という強行スケジュールだ。
 それでも、エルマーは配達員の仕事が気に入っている。手紙を渡した瞬間、相手の喜ぶ笑顔がいい。差出人がこの顔を見ることが出来ないのは勿体無い、と思ってしまうほど、人は手紙をもらうと素敵な笑顔を浮かべる。
 思い出も何もかもを失ってしまっているから、余計に感じるのかもしれないけれども。「ああ、あいつからか、懐かしいなあ!」と笑いながら言われると、無性に胸の中がじわじわと温かくなる。
 ティエラはもう労働ができる年ではないので、帰ればいつも彼女がいる。むっつりとしていることが多い彼女ではあるが、エルマーが帰った時にはふっとその表情が緩むのを知っている。
 そんな風に、エルマーは日々暮らしていた。



「じゃあ、行ってくるよ」
「ああ、行っといで」
 ドアを開けると、日の出からそう経っていない空が、優しく色づいていた。薄いピンクに、少しばかりの紫が混じっている。天気が良くなりそうだ、とエルマーは目を細めた。
 町へ降りていく頃には、予想通り澄み切った青い空が頭上にあった。
 配達所へ行くと、すでに今日の郵便物が集められていた。
「おはよ」
「おお、おはようさん。ほれ、あんたの分はこれだ」
 所長が振り返ってエルマーに鞄を渡してくる。所長自らが仕分けをしているため、すでに汗をかいている。
「今日も大量だねえ」
「まーな。商売的にはいいが、運ぶ人間は大変だ。今日はちょいと重いががんばってくれよ」
「了解」
 いつもは他の配達員がいて、同行することもあるのだが、今日は誰もいなかった。先に行ってしまったか、もしくはまだ到着していないのだろう。
 久しぶりに一人で行くのも良いなと思いながら、エルマーは鞄を肩から掛けながら配達所をでた。
「さってと」
 行くか、とその場で伸びをする。
「サンジ君」
 北へを振り返ったところで、呼びとめられた。昨日の今日なので、誰だかはなんとなくわかる。
 赤毛の少女がエルマーをまっすぐ見つめていた。後ろには黒髪の女性がついている。昨日は泣き顔だったけれど、今は泣いていない。それだけで、見知らぬ人なのにほっとした。人が泣いている姿というのは、あまり好きではない。
「おはようございます」
「おはよ。ってそうじゃなくて! 昨日はよくもはぐらかしてくれたわね」
 泣くどころじゃない。怒りモードだ、と内心で訂正した。赤い髪の毛と同様に、怒っている少女は火のように激しかった。
「はぐらかすって、何を?」
「何を、ってすっとぼけるのもいい加減にして!!」
「航海士さん、少し落ち着いて」
「これが落ち着いていられますか! あんたもあんたよロビン! 一人淡々としちゃって。ずるいわ!」
「あら、だって性分だもの。仕方ないわ」
「ルフィはサンジ君のご飯にありつけなくてどっか行っちゃったし、ゾロはまた寝てるし、チョッパーとウソップはうざいくらいに落ち込んでるだけだし! 動くのはあたししかいないじゃないのよ、なんかいっつもそう!」
「た、大変だね」
 少女の怒りは、どうやら自分だけではなく、別の人間にも向けられているらしい。少しほっとして声をかければ、
「苦労掛けてる張本人に労られたくないわ!」
 と叫ばれてしまった。どうしよう、と目線を黒髪の美女に移せば、彼女は意外にもにこりとかわいらしく笑った。
「エルマーっていうのは、あなたの本当のお名前かしら」
「え、そりゃもちろん」
「昨日、一緒に帰った女性は、あなたのおばあ様?」
「いや、血縁なだけで、祖母ではないよ」
 これってもしかして、尋問されている? と思いながらもエルマーは正直に答えた。女性の口調が穏やかであったことと、聞かれたことはこの町の人間も知っていることで隠す必要がなかったからだ。
「いつから一緒に暮らしているの?」
「いつから? んんーと、たぶん数年くらいかな」
「たぶん?」
「おれ、隣の島に住んでて、引き取られたらしいから」
「らしい?」
 こちらは赤毛の少女が、少し目を細めて聞き返してきた。
「このあたりの人はみんな知ってるよ。おれ、半年前より昔の記憶がないんだ」
「へえ」
「あら」
 二人が同時に声を上げる。してやったり、という会心の笑みを浮かべているので、エルマーは少し後ずさった。
「半年前、なるほどね」
 赤毛の少女がにやりと笑った。
「あのー、そろそろいいかな? おれ、配達に行かなきゃならないからさ」
「いいわよ。行ってらっしゃい」
「気をつけてね」
 一転してにこやかに笑いながら手をふられ、エルマーは曖昧に頷いて彼女たちに背を向けた。
 あんまり、関わらない方がいいかもしれない。
 少し小走りになりながら、エルマーは思った。
 なんとも珍妙な二人組なのだ。いや、彼女たちだけではなく、他の面々も島の人間とは雰囲気が違う。
 どうやら、自分に似た「サンジ」という人間を探しているのはわかる。何となく今の反応で、自分に嫌疑がかけられたかもしれない。記憶がない、と聞けば「もしかして」と思うのは仕方ない。
「でも、おれは違うんだよ」
 北への一本道を歩きながら、エルマーはため息をついた。
 自分はエルマーなのだ。ティエラは嘘をつくような人間じゃない。それに、なんとなく、記憶がないのだから本当に何となくなのだが、あんな風に無愛想な人間と暮らしていたような気がするのだ。本当に全く根拠がないのだけれど、ティエラとの暮らしは、エルマーによく馴染んでいる。いくら記憶がないといっても、そういう自分の体感は信じていいのではないかと思っている。




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