風はすすき野原にささやいた





 師匠の家に着くと、見知らぬ人間がいた。見知らぬというだけではなく、なんとも風変りな人間だった。ゾロは思わず、部屋の戸口で立ったままじろじろと見つめてしまった。
 あんたの態度は不躾すぎるのよ、という幼馴染の言葉が頭をよぎったが、それはすぐにかき消えた。なんだこいつという興味が勝ったのだ。
「ゾロ。来たのかい。こっちにおいで」
 師匠が手招きするのに頷いて、ゾロは部屋に入った。太陽で温められた畳が、足の裏を刺激する。少しゆっくりと、音をたてないように、師匠の隣に座った。目の前には茶卓、そしてその向かい側に、ゾロが気になる人物がいる。ゾロより年上の青年だった。この辺では見たことのない、金色の髪をしている。目の色もよくわからないが、黒よりもずっと薄いような気がする。左目は前髪に隠れていて見えなかった。外の世界には、ゾロたちと外見が違う人間がたくさんいるということは知っている。けれど、実物を目にするのは初めてだった。
 おんなじ人間なんだろうか、とゾロは思った。肌も白くて少しだけ冷たく見える。でも、眉毛だけはへんてこで、ぐるぐると巻いていた。外の世界にはいろんな奴がいるんだな、とその眉毛を見つめて妙に納得した。
「ゾロ、こちらはサンジさん。ノースの方から来られたんだ。料理人だそうで、各地の食べ物を調べて回っているらしい。この夏はうちに滞在することになったから、ゾロも仲良しなさい」
 サンジ、と口の中で呟いてから、ゾロは師匠に「はい」と頷いた。
「やだ、ゾロったら。やけに大人しいじゃないの」
 奥のふすまが開いて、くいなが入ってきた。手には茶と菓子を載せた盆を持っている。静かに茶卓の横に座ると、金髪の目の前でそれらを並べた。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとう」
 にっこりと、金髪は笑った。笑うと冷たいと感じた雰囲気が一気に霧散して、ゾロは驚いた。
「このお菓子は何かな?」
「おはぎよ。中にもち米が入っているの。外の黒いのは小豆を砂糖で煮たものよ」
「へえ、これが! 頂きます」
 初めて目にするものなのか、サンジは目を輝かせておはぎに魅入る。しばらく皿を持ち上げて観察してから、箸で二つに割る。驚いたことに、箸の持ち方はとても綺麗だった。断面を再び眺めた後、サンジはやっとおはぎを口に入れる。咀嚼してから、にこりと笑った。嬉しそうな笑みで、ゾロはその笑顔から目が離せない。なんで、こんなに楽しそうな顔をしているんだろう。いつも食べて、食べ飽きているおはぎが、このときはとても美味しそうに見えてしまった。
「砂糖は白砂糖じゃないね。でも黒とも違う。もっと優しくて控えめな甘さだ」
「すごい、良くわかりますね! うちのは三温糖を使っているの。白より甘さがきつくなくて、黒よりしつこい香りがなくて、小豆の味を引き出すには一番なのよ」
「なるほど、確かに。素材の味を邪魔しない甘さだ。あとで、見せてもらってもいいかな?」
「喜んで!」
 地元の料理をほめられて嬉しいのか、くいなもにこにこと笑っている。普段は剣のことばかりなのに、こうしていると女みたいだ、とゾロは思った。一人、見知らぬ人間がいるだけで、空気までが変わる。それが面白いのか、不愉快なのかはゾロ自身にもよくわからなかった。
 気にはなったけれども、自分とは関わりがないだろう。そう思って、ゾロは師匠に一礼すると、座敷を出た。もともと何をしに来たのかを思い出したのは、母屋から続く道場へ足を踏み入れた時だった。
 師匠に、村を出たい、と言うつもりだったのだ。




 サンジに出くわしたのは、その次の日だった。しかも、師匠に昨日の要件を切りだして、あっさりと却下された、その後だ。
 君はまだ十三だ。外を知るにはまだ早い。なぜなら、内側が満ちていないからだよ。己を知り、体を作り、知を溜めて、そして確固たる意志を持って、それから出ていかなければ、君は何も得られないよ。
 言っていることはなんとなく分かるような気がした。しかし、結局は若さを理由にされているということが、気に食わない。大人になるまで待ってなどいられなかった。外に出たい。もっと強くなりたいのに。
「ちくしょう!」
 門を出てから叫ぶと、
「うおっ、びっくりした!」
 と真横で声がしたので、ゾロの方が驚いた。見下ろせば、丸い頭が見えた。色は金だ。昨日来た客だった。太陽の下で、金の髪は少し薄く見える。
「なになに、どうしたのよ? お前、昨日来たガキじゃん」
 ゾロは眉を顰めた。昨日の態度とは全く違い、サンジは粗野な口調でゾロに話しかけてきた。しかも、口には煙草が銜えられている。ゆるゆると煙が空に上って消えていく。
「なんだあんた」
「なんだって、昨日挨拶したろ? 覚えてねェ?」
 サンジは首を傾げる。
「態度が全然違う」
「そりゃお前、年長者と女の子には丁寧に話さねえとな。大人のたしなみだ。基本常識だ」
「あっそ」
 どうでもいい、とゾロは歩きだした。
「あ、ちょっと待てよ。お前どこ行くの」
「帰る」
「んじゃ、おれも」
「なんでだよ!」
 思わず怒鳴りながら振り返ると、サンジはすぐ後ろをついてきていた。悔しいが、背は見上げなければいけないほど高い。
「くいなちゃんにおつかい頼まれたんだよ。お前、ゾロだろ? これ、オスソワケのとうもろこしだって。ところでオスソワケってどういう意味?」
「作りすぎたり余ったりした時に横流しすることだよ。……なら、いいからおれが持ってく。寄越せよ」
「いやだね、おれが頼まれたんだからさ。最後までお届けせにゃ、くいなちゃんに呆れられちまう」
「あいつはそんなちっせーこと気にしねェよ。むしろ進んで人をこき使うやつだ、あいつは」
「おいおい、女の子をそんな風に言っちゃだめだ。内心で傷ついたりするんだぞ」
 妙に真面目な顔でサンジは言う。気勢がそがれて、ゾロはため息をついた。
 なんか面倒くさい。
「付いてこいよ」
 これはさっさと家に案内して帰すに限る。ゾロは竹刀を背負って、歩き出した。後ろから変な鼻歌が聞こえてきた。聞きなれないメロディーで、夏の空にはどことなく不似合いだった。




 すぐ帰すつもりが、ゾロのあては外れた。サンジの滞在目的はすっかり村に広まっているらしい。ゾロの母親も例外ではなく、うちのご飯も食べていって、と引きとめにかかった。なんだその顔! と突っ込みたくなるくらいに母親は生き生きと料理を作り、サンジはまたその横でにこにこと見ていた。途中からは手伝いをし始めて、何やら楽しそうに母と話し込んでいる。
 ゾロにとってはなんの面白味のない、煮物やら魚の煮付けやら、きゅうりの酢の物やらを、サンジはいちいち作り方を聞いてはメモを取っている。その顔だけはやけに真剣だった。
 その姿を遠目から眺めていると、不意に、こいつは今広い世界を見て回っているんだ、と気づいた。
 ゾロが剣一本で世界を見てみたいように、サンジは料理という対象を引っさげて世界を吸収して回っているのだ。
 うらやましい、と思った。こいつとおれの差はどこにあるのだろう。年だけではないような気がした。師匠が言うように、こいつは内側がしっかり溜まっているのだろうか。まだゾロが知らない何かで満たされているから、外に出られたのだろうか。
 珍しくいろんなことを考えたせいで、ゾロは食欲を無くした。箸を放って、居間の隅で寝転がった。
「ゾロ、サンジさんを送っていきなさい」
 もうそろそろ、とサンジが腰を上げると、すっかり意気投合したようで、母は大量の土産を渡して、玄関まで見送った。
「なんでおれが!」
「いいですよ、お母さん。もう遅いですから。ゾロはまだ子供じゃないですか」
 カチーン、と頭にきた。ゾロにその言葉は今は禁句だ。さっと立ち上がると、どすどすと音を立てて玄関に向かう。
「送ってやる!」
「いってらっしゃーい」
 呑気な母親の声を背に、ゾロは玄関の引き戸を思いっきり閉めた。




「なにお前。子供って言われたのが気に食わねえの?」
 ぎゃはは、と品のない声でサンジは笑った。
「てめえ、何でおれの前と他でそんなに態度ちげえんだよ」
「ああ? 反射だな、反射。もう身についちまってんだ。おれは男でしかも年下には遠慮しねえ」
「あっそ」
 もうなんだか本当に面倒くさい。今日会ってから、何度目かの感想を背負って、ゾロは歩く。
「しかし、この村はいいな。料理も素材も興味深いし、何より村の人たちがあったけえ。お前のお母さんも素敵なレディだな」
 母親にレディという言葉が似合わなくて、ゾロは背筋がむず痒くなった。
「キモ……」
「失礼な奴だな、このガキめ」
「うるせえよ、ぐる眉」
「んだとォ! お前こそマリモみてえな頭しやがって!」
「ああ? ふざけんな、何がマリモだ!」
「お前の頭に決まってんだろ。もしかして光合成とか出来ちゃう?」
「出来るか!」
 しばらくくだらないやり取りをしていると、サンジが不意に笑った。初日のような、嬉しくてたまらないという風な笑顔だ。悪態をついていた人間が急にそんな風に笑うので、ゾロは少し驚いた。
「いいなあ、お前。なんかいいよ。村の子供って感じで」
 なんだそれ、とゾロは思ったが、サンジに馬鹿にしているようなところはなく、本気でそう思っている雰囲気が感じられたので、口を噤んだ。
「いい村だよな、本当に。料理も独特で、優しい味で。この土地に合ってる」
「……あんた、どうしてノースから出てきたんだ。何でこんなことしてんだよ」
 少し前を歩いていたサンジが振り返る。その口にはやっぱり煙草が銜えられている。
「おれはもともと、ノースでコック見習いしててなァ。そのまま見習い期間を終わったら、レストランかどっか、地元でそのまま働く予定だったんだよ」
 まさかそんな素直に話してくれるとは思わなかったので、ゾロは驚いてサンジを見つめた。サンジはゾロに目を合わせて、にやりと笑う。
「ちょうどお前くらいの年だったかなあ。ある日、店に一人の客がやってきた。その客は近くの病院に入院しているレディで、看護婦が付き添っていた。一目見て、もう長くないんだなというのがわかった。もう自分じゃ歩けない。栄養も吸収できなくなってしまったようで、かわいそうに、ひどく痩せていたよ。彼女は、生まれ故郷の料理を食べたいのだ、と言った。捨ててきてしまった故郷の、母親の味を求めてたんだな。でもそこはなんてことはない、普通のレストランだ。ただ病院に近いだけの。料理長も従業員も誰も、付き添ってきた看護婦も、彼女が言う料理がどんなものか、全く知らなかった」
 サンジはそこで言葉を切った。煙草の先から灰が落ちそうで、慌てて持っていた紙に包んで消した。その辺に捨てることはせず、サンジはポケットにしまった。
「おれは見習いだったから、もちろん料理は作れねえ。ただ、周りの大人が、彼女が食べたがっている料理をなんとか再現しようとしているのを見ていた。どんな材料なのか、調味料は何を使っているのか。煮込むのか、焼くのか。彼女は苦しそうだったが、一生懸命答えた。そうしてコック達はなんとか作り上げたのさ」
「……それで?」
 サンジは微笑んだ。少し悲しそうな笑みだった。
 夜空には満月が煌々と光っていた。風がざあ、とゾロの後ろから吹いていく。サンジの金髪が揺れた。隠れている左の目が少しだけ覗いた。
「彼女は一口すすって、『違うみたい』と泣いた。ごめんなさい、とコック達を見まわして、何度も謝りながら、『ありがとう』と言ってくれた。そして、『でも違うの。わたしが食べたいのはこの味じゃないの』と最後に呟いたんだ」
 それから? とゾロが促す間もなく、サンジは続けた。
「次の日、彼女は亡くなったよ」
 予想していた言葉だったが、ゾロは息をのんだ。
「故郷から持ってきた、唯一の、母親の形見の指輪をつけて亡くなった。おれはそういう話を、人伝えで聞いていた。厨房から覗いていた時に見えた、彼女が『違うの』と泣いた表情がずっと離れなくてなァ。食べさせてあげたかったなあ、と思った。母親の味を再現することは、誰にもできないけど、せめてそれに近いものを食べさせてあげたかったんだ」
 そういうと、サンジは手をのばして、わしゃわしゃとゾロの頭を掻きまわした。
「何すんだよ!」
「わりいわりい。何か手触り良さそうでつい」
 にかりとサンジは笑う。感傷を吹き飛ばすみたいに。しかし、ゾロの胸の内には『違うの』と泣く女性の姿が残った。
 こういうことなのかもしれない、とゾロはサンジを見上げて思った。師匠の言う「内側」とはこういうことなのだ、と。ゾロにはまだない、確固たる意志。そして、それは無理やり探すことではないのだ、ということにも気づいてしまった。
「てめえ、いくつでノースを出たんだ?」
「ああ? このクソガキ。お兄様といえ、お兄様と」
「ふん」
「かわいくねーなー」
「で、いくつだ?」
「こだわるのな、少年。んーと、見習いが終わった年だから、十七かな。二年前だ」
「ふん」
「教えてやったのに、なんだその態度!」
 首に腕を回されて、締めあげられた。本気ではないというのはわかるが、ちょっと苦しい。
「やめろって、このマユゲ!」
「年長者に対する態度かそれは!」
 腕を引き剥がす時に、サンジの指が目に留まった。食材を触り、水に触れている指は、細かい傷がついていた。離れる瞬間、煙草の香りと、夕飯の魚の匂いがした。外見は全く違うのに、同じ匂いを纏っている。そのことは、ゾロをなんだか落ち着かなくさせた。




 サンジはそれから秋の終わりまで滞在した。
 時にはゾロの家に泊まって、ノースの得意料理などをふるまってくれたりもした。馴染みのない味だったが、素直にうまいと思えた。馴染みのない味だと感じるたび、ゾロはサンジの話を思い出した。
 異国の料理を食べ続けること。故郷の料理を口にしなくなること。ゾロもここを飛び出せばそういうことが当然になるのだろう。母が作った煮物を懐かしく、恋しく思うのかもしれない。もしも道半ばで死ぬようなことがあれば、最後に食べたいと泣くのかもしれなかった。
 そういうことなのだ、とサンジと出会ってからゾロは一つ一つ納得する。外に出ることについて。漠然と思い描いていたことが、具体性をおびてゾロの中に落ちてくる。それをひとつひとつ握り締めて、ゾロは毎日稽古に励んだ。内側が満ちるまで、自分ができることを、今は精いっぱいやろうと思った。




 サンジが出ていく前の日に、二人はゾロの家の前に広がるすすき野原で話をした。
 母が持たせてくれたおにぎりを頬張りながら。
 サンジは梅干しの漬け方が各家庭で違うことに、最後まで感動していた。到底覚えきれねえ、と満足げに笑いながら、母が握ったおにぎりを食べた。梅干の種を眺めて、すげェなあ、と呟いた。
 ゾロはすすき野原を見ていた。サンジが来た頃には生えていなかったすすきは、今やゾロの背を追い越している。
 ざあ、と風が揺れるとすすきも揺れる。同じ方向にそよいで、まるで風に形ができたようだった。赤トンボがその流れに逆らうように、一生懸命飛んでいる。秋だ、とゾロは思った。
「綺麗だなあ」
 サンジは言った。
「おまえはきっと、どこに行ってもこの光景を思い出すんだろうなあ」
 ゾロが見上げると、サンジはどこか遠い目をしていた。きっと彼はこのすすき野原の向こうに、自分自身の故郷を見ているのだろう。それはどんな風景なんだろう、とゾロは思った。いつか行ってみたい、とまた一つ具体的な形となってゾロの中に落ちる。
「おまえもいつかこの村を出るんだろ?」
「ああ」
「たんまり、お母さんの飯を食って育てよ。もしもどっかの海でくたばりそうになったら、おれが駆けつけてやるぜ」
「誰がくたばるか」
 ゾロはふん、と鼻で笑った。
 サンジは一人で感傷に浸っている。凄くいやな感じだ。これから立ち去る土地をすでに過去にしている。きっとゾロのこともすぐに奥深くへ押しやってしまうのだろう。それがとても気に食わなかった。
 だからゾロは言った。もう一つ、『形』を自分自身で作ってやるのだ。
「おれが外に出たら、てめェの料理を食いに行ってやる。どんだけの土地の料理を覚えられたのか、チェックしてやるよ」
 にやりと笑って見上げると、サンジは目を見張った。そこで初めて、ゾロは彼が青い瞳をしていることに気づいた。
 じっと目を見上げてくるゾロに、サンジは笑った。未知の食べ物を見つけた時のように、けれど少し照れ臭そうに。
「バーカ。おれ様の腕なら、全制覇も不可能じゃないぜ。楽しみに待ってろ。がんばって、おれを探しにこい」
 ぐしゃぐしゃ、とまたしてもゾロの頭を掻きまわす。最後なので、ゾロはその手を甘んじて受けた。掌は温かい。
「てめェの家の梅干し漬けて、待ってるよ」
 少しだけ声のトーンが落ちている。ゾロはうつむいて、涙が出るのを堪えた。別れはひたひたとやって来ている。
 風がすすき野原を吹き抜けていく。この風は、きっとすぐにこの村を去って、広い海へと流れるのだろう。




2009/08/25

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