海を行く







 波の音が頭から消えない。
 消えるわけがない、とサンジは海面を見下ろしながら自嘲した。三六〇度、見渡す限り、海しか見えない。この足の下、踏みしめた板の下には、ただしょっぱい水しかないだなんて、サンジにはまだ信じられなかった。陸地にいない、という違和感にまだ慣れない。心もとない気持ちになって、不意に胃の奥がぎゅっと軋む。ゼフとあの島に来る前までは、長期の船旅も経験しているはずだったが、十年にも及ぶ陸地の生活で、すっかり忘れてしまったようだった。ただ、船酔いがないことだけが救いだ。
 それにしても、本当に、海しかない。空も青くて、視界が単色に支配されている。今日は雲一つないので、余計にそう思った。
 手すりに肘を付いて、真下を見下ろす。舳先にあたって弾ける波しぶきを見ると、この船がちゃんと前に進んでいることが実感できた。あまりにも景色に変化がないので、時が止まっているかのようにも思えるのだ。
 だからだろうか、やたらと頭がぼんやりする。
「あんまり乗り出すと落ちるぞー、サンジ」
「んなヘマしねえよ」
 すぐ隣で、船長のルフィが、羊の頭にだらりと寝そべったまま言う。そっちの方が落ちそうだ。よくそんな体勢で寝ていられるものだ、と思いながら顔を上げると、ああ! とルフィは大声を上げて立ち上がった。
「島だ!」
 ルフィが指を指した先を目を眇めて見ると、確かに島影らしきものがあった。
「あら、やっと見えた?」
「おおおおいおい、やばい島じゃねえだろうなあ?」
 ルフィの声で、航海士のナミと、狙撃手のウソップがキッチンから出てきた。
「あー、やっと着いたか? 酒が切れたところだからちょうどいい」
 ゾロは甲板の後尾からのっそりと姿をのぞかせた。サンジを入れて、仲間はこの五人だけだった。少数精鋭というには少なすぎる人数に、乗り込んでから驚いたものだ。
 しかし、人数が少ないからこそ、コック不在のまま航海をしてこられたとも言う。
「サンジくん、はいこれ」
 紅一点のナミが、サンジに笑顔で近づいてくる。同じ年頃の少女と接する機会が無かったので、サンジはとてもどぎまぎしてしまう。挙動不審になって、ナミの苦笑を誘ってばかりだ。ナミは持っていた袋を目の前にぶら下げた。
「これ、食費ね。あの島で調達してくれる? 島を出たら、二週間は次の島につかないと思うから、そのつもりで買い出ししてね。荷物持ちにゾロをつけるから、終わったら帰ってきて、船番交代ね」
「わかったよ、ナミさん」
 渡された袋はずっしりと重たかった。



 船が港に着いた途端、いや、着く前から、船長はゴムの腕を伸ばして島に飛び立ってしまった。ナミがため息をつき、ウソップは苦笑いをしている。ゾロはどこ吹く風という感じで、それらの態度から、クルーの役割が手に取るようにわかった。自分が、これからどういう役割になるかはわからない。何しろ、まだ乗り込んで五日だった。
「行くぞ」
 ゾロが歩いていく背中を追いかけ、しばらくしたところでサンジは慌ててゾロの背中を蹴った。
「馬鹿野郎! いきなり人気のねえ方に行ってどうする! 店はどう見てもあっちじゃねえか!」
 船の中では迷いようがないので、ゾロの方向音痴ぶりを忘れていた。ナミがゾロをつけたのは、迷子にならないよう、目をつける意味もあったに違いない。年下の少女ながら、素晴しい采配だ、と感嘆する。
「何買うんだ」
「とりあえず、物色してみねえと分かんねえ。市場に行くぞ」
 慌てて軌道修正した先の市場は、とても賑わっていた。外部からの人間も多いらしく、商売気があの島の十倍はあった。値切り交渉をしている幼い少女の声に、サンジは口元を緩めた。
 ちらりと眺めたところ、物価はそう高くない。根の物の野菜ばかり食べていたが、ここには葉物も多く、色彩豊かだった。
「やべえ、どうしよう」
 気分が高揚してきて、サンジは手の甲で鼻を抑えた。なんだか感激で涙が出てきそうだ。
 豊富な食材から選んで買い、それを誰かのために調理できる。――幸せだ。
 あの島では食材が限られていたので、どうしてもメニューは似通ってしまうし、温かいものでなければならなかったので、自然と煮込み料理ばかりだった。
 何を買おう、と袋を握りしめて迷っていると、ゾロがサンジの袖を引っ張った。
「おい、米は買えよ。あと酒だ」
「米……? どっかにあったか?」
「さっき見かけた。おれはパンより断然米派だからな」
「そんな派閥が実際あんのか」
「そうだ。米派の執着はすげえぞ」
「なんだそれ」
 思わず、笑いが漏れた。目に入る多種多様な食材の数々、ゾロの米の話、紛れもない、文化の違いに心が躍って仕方ない。あの天幕の中には、火事の中、唯一無事だった『世界の食材辞典』があった。飽きずに眺めていたせいで、ページは外れかけ、角は擦り切れていた。見たことのない食材でも何ページのどこにあるか、説明文までしっかり頭に入っている。そんな、本の中にしかなかった「世界」の一部が、今手を伸ばせばここにある。
「おいゾロ。ナミさんは米とパン、どっち派だ」
「ナミしか聞かねえのか」
「レディーファーストに決まってんだろ。野郎は後回しだ」
 袋の中の金額と、メニューが頭の中で巡る。主食に副菜に保存食、調味料、航海の期間……算段を付けるのは初めてだったが、しかし面白いくらい頭の中で組み立てられていった。
「よし、まずはあれからだ。おーい、おっさん、それダース買いするから、端数まけてくれ!」



 大量に買って船に帰ると、ナミとウソップが入れ違いで出て行った。サンジの持ち込んだ食材に興味津々だったが、船に残らず、二人はそのまま、陸で宿に泊まるらしい。サンジも誘われたが、断った。買ってきた食材で保存食を作ろうと思った。集中してキッチンをフル活用していると時間を忘れていて、気づけばとっぷりと夜が暮れていた。さすがに手がしびれてきて、サンジは肩を回した。
 心地よい疲れだ。
「やっと終わったか」
 ぎくりと振り返ると、ゾロが机に肘をついて呆れたようにサンジを見ている。
「お前、いたの?」
「いて悪いか。それより、腹減った」
 時計を見れば、八時を回っている。腹が減るはずだ、とサンジは慌てて、作り置きをしたばかりの魚の酢漬けを皿に盛り、ゾロの前に置いた。
「とりあえず、それ食ってろ」
 米を炊く時間はないので、じゃがいもをすりおろして野菜と肉をまぜ、フライパンで焼き固めた。これなら腹に溜まるし、野菜も取れる。ソースをかけて出すと、ゾロは黙々と食べた。
 その目の前に座って、うまいか、と聞こうと口を開いて、すぐに閉じた。食べっぷりを見れば、聞かなくてもわかった。
「ガツガツ食うんじゃねえよ。ルフィがいねえんだから、誰も取らねえっつの」
「腹減ってんだ」
「悪かったって」
 食事に関しての不備だけは、サンジはゾロに対しても素直に謝ることができた。
 ゾロは綺麗に平らげた。空になった皿を下げようと腕を伸ばすと、手首を取られた。立ち上がったゾロに引きずられて、キッチンから出てしまう。
「おい! 片付け!」
「んなもん明日だ明日」
「何でだよ!」
 抵抗しても、腕力の差でずるずると引きずられていく。向かった先は、男部屋だった。突き飛ばされるように床に倒されると、ゾロはハンモックにある毛布をサンジの上からかけた。は? と思う間もなく、ゾロが薄い布の中に入ってくる。抱き込まれるようにされて初めて、サンジは激しく抵抗した。
「なんだなんだ!」
「おとなしく寝ろ」
「いや! なんでてめえとくっついて寝なきゃなんねえんだ!」
「一緒に寝てやるって言っただろ?」
「あれは寒かったからだろ! ここはあの島じゃねえ!」
 サンジはもうすでに毛織の民族衣装を脱ぎ捨て、ウソップに借りた薄着の服を着ている。
 引っ付いて眠る必要はないのに、ゾロはあの島でそうしたように、サンジを腕に抱え込むようにした。額がゾロの鎖骨に当たる。なんだこの状況、とうんざりするべきだった。抵抗して動いたせいで、額は汗ばむし、ゾロの体温は高い。それでも、回された腕の熱さに、サンジの瞼が落ちた。ふ、と頭上でゾロが笑う気配がする。なんだよ、と思っていると、密やかな声がする。
「お前、船に乗ってからろくに寝てねえだろ」
 頭から響くように聞こえた。ぎくりと体をこわばらせると、ゾロはそろりとサンジの項を撫でた。寒くなんてないのに、背筋にぞくぞくと悪寒に似たものが走る。
「……セクハラはやめろ」
「他人の気配がして落ち着かねえんだろ? あの天幕と同じようにすりゃ寝れるんじゃねえのか」
「おれはちゃんと寝てるって」
「嘘つくな」
「嘘じゃねえ」
「目の下に隈ができてんのは何だ?」
 思わず手を目元にやってしまった。ゾロがまた憎たらしく笑う。少しだけ年上だからと、やけに子ども扱いされている気がする。むっとして、ゾロを押しのけようとしても、かたい腕は揺るがない。
「いいから寝ろって。飯の礼だ」
「そんな礼の仕方があるかよ……」
 そう言いながらも、なぜか、本当になぜなのか、サンジの瞼は重くなっていく。髪を撫でられる感触がどこか遠い。頬や項、背中をなぞるように撫でられても、もう反応できなかった。
「いたずら、すんな……」
「てめえはなんか、悪戯しがいがある」
「ばか」
 呟いた口を熱いもので塞がれた気がした。ぬるぬると舐められて吸われたような気がしたが、気のせいだと思い込むことにした。ゼロ距離に慣れたのは間違いだった、と思いながらも、抵抗できない、拒絶の気持ちがない自分を呪いながら、サンジは寝入った。



 翌日の目覚めは快適、とはいかなかった。暑くて寝汗をかいている。がんじがらめに、まるで拘束するかのような腕の中での目覚めが快適なはずがない。しかも相手は男だ。
「それなのに熟睡って……」
 おれはおかしいのかもしれない、とゾロの腕を解きながら起き上がる。強引にはがすと、ゾロは仰向けに転がったままいびきをかいた。
 その悩み事がなさそうな顔に苛々するが、寝不足で重りを仕込んだかのように鈍かった頭はすっきりしている。悔しくて、腹いせに鼻をつまむと、ふが、と変な声が漏れた。それに僅かに溜飲を下げて、サンジは男部屋から出た。
 朝日が正面から差して、目を眇めた。逆光で島影が暗く見える。風は涼しいが、冷たさはない。本当にあの島を離れたんだなと思うと、自然とズボンのポケットに入れた懐中時計に手が伸びた。
 睡眠をしっかり取ったせいかもしれない。しかも、夢を見なかった。
 島を離れてからずっと、眠るとゼフの夢を見ていた。足を切られて、海に投げられる夢。
 懐中時計の表面は汚く擦り切れていたが、それでも朝日に光っていた。一度も開けなかったが、サンジは不意に、蓋を開けてみようと思い立った。スムーズには開かなかったが、蓋の合わせをこじ開けるようにして隙間を広げていく。
 時計の針は、当然ながら、動いていなかった。しかし、蓋の裏側を見た途端、サンジは目をきつく瞑った。
 一瞬見ただけでわかってしまった。『サンジへ』と文字が刻まれていた。その下に小さく、『ゼフ』と記してあることも。
 歯を食いしばって、サンジは耐えた。
 じりじりと日が昇っていく。懐中時計を握りしめて、サンジは日の暖かさを感じていた。
 もう悪夢は見ないような気がした。見たとしても、自分は大丈夫だと思えた。
 あの天幕の中は本当に寒く、心も凍っていたが、ここは違う。暖かい。
 サンジは目を開いた。
 第一に、ゾロが起きてきたら何を作ってやろうか、と思った。食べさせたら街に降りて、スーツ一式を買おう。この船のコックなのだから、給仕をするためにも、ぴしっとした格好をしておきたい。ナミが米派かパン派かを聞いて、ルフィが食べたくなるような野菜メニューを考える。ウソップはきのこが嫌いのようだ。自分の目はごまかせない。刻んでスープに入れてやろう、と思った。
 そしてゾロには、昨晩の礼に、米の酒でも買ってやろう。
 背後で扉の開く音がする。近づいてくる、すでに聞き慣れた足音に、サンジはゆっくりと振り返った。








……ラブが足りないのはもはや仕様です。

2013/5/16

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