夜の子どもたち





■ 1日目 ■

 ゾロは、柄にもなく、ため息をついた。
(まいった)
 座っているベンチの椅子は冷たいし、空を見れば、厚い雲がかかっている。天気予報士でなくても、すぐに雨が降ってくるだろうと判別できるくらいだ。実際、空気も湿ってきたような気がする。
 今後のことをどうしようかと考えていると、腹が鳴った。もう何回目になるのかわからない。まだ鳴る元気があるだけ、我ながらすごい。
 空腹のあまり、ずるずると椅子の上に寝転がった。
 帰る家もない、金もないとあっては、どうしようもない。これは最後の手段を取るしかねえかな、とゾロは思った。
 転がりこめるような女の顔をぼんやりと思い浮かべる。その大半は顔のパーツがどこか曖昧だったり、胸の形だけしか覚えていなかったりと様々だ。
「ちょっとあんた、死んでんじゃないでしょうね」
 少女の高い声が聞こえたと思ったら、くすんだ空の真ん中に、オレンジ色が映った。やたらと鮮やかだ。
「あ、起きてた」
 目が合うと、少女は眉を顰めた。何でそんな不快な表情をされなければならないのだ、とゾロは憮然とした。
「なんか用か?」
「用なんかあるわけないじゃない。こんなところで死んでたら迷惑だから、確認しただけよ」
「なんでお前に迷惑がかかるんだ」
 この公園は公共のものだったはずだ。ゾロはやれやれと起き上がった。
 改めて真正面から見ると、オレンジ色の髪の少女は、思ったよりも幼かった。座っているゾロと目線が同じだ。ランドセルを背負っているのだから、小学校の高学年くらいだろう。
 こんな少女から話しかけられることなど、今までなかったので、ゾロは少しだけ少女に興味を持った。何しろ、ゾロは顔が怖いらしいので、目が合うだけで子どもに泣かれてしまったことがある。まったく失礼な話だ。
「なんだ、起きられるんじゃない」
 少女は呆れたように肩を竦めた。やけに大人のような仕草をする。
「ならさっさとこっから出て行ってよ。邪魔」
「なんでてめェに言われなきゃなんねェんだ。ここはお前の家か」
 さすがに若干むっとして、ゾロは言い返した。
「私みたいな可愛い子が、こんな吹きっさらしの公園に住んでるわけないじゃない。あんた頭悪いの?」
 哀れみに近い目で見られて、ゾロは本格的にむっとした。
 こんな子どもに腹を立てるのはばかばかしい。しかし、ばかばかしくも、腹が立つときは立つ。
 言い返そうとした時だった。ゾロの腹が盛大に鳴った。どんなときでも、空腹のときは本人の都合などおかまいなしで腹は鳴る。
「……なにあんた。お腹空いてんの?」
「もう三日もろくに食ってねェからな」
「三日!? やだ、ちょっと、やめてよね!」
 焦ったように、少女は周囲を見回した。周囲というよりは、ゾロの背後を見ている。
 何かあんのか、と振り返ろうとする前に、
「ナミさんっ!」
 と声が聞こえた。
「げ、サンジ君」
 と少女が呟いた。小さく舌打ちまでしたのを、ゾロの耳は聞き取った。
 公園の入り口から、金色の髪をした男が駆けて来るのが見えた。親父か? と思ったが、それにしては若すぎる。同い年か、自分よりも年下に見えるくらいだ。それに親だったら自分の子どもを「さん」付けなどしない。
 関係性を計りかねているうちに、金髪はゾロの目の前に立つと、躊躇いなくゾロの頭を蹴った。右の側面から思いっきりだった。
 空腹のあまり油断していたとはいえ、普段のゾロでも軽々と避けられる速さではなかった。気づいたときには、頭から落下していて、土に頭が着いていた。
 なにをする、と立ち上がる力はなかった。
「あ? もう終わりか? この変態が」
 ドスのきいた声が聞こえたかと思うと、背中をぐりぐりと足裏で押された。
「て、てめ」
「あー、サンジ君。ごめん、私まだ何もされてないわ」
「まだ≠ネだけだろ、ナミさん! おれが来なかったら、今頃ナミさんはこの薄汚ねェやつに何をされたか……! うおおお、こいつめこいつめ!」
 今度はげしげしと蹴られた。怒りのあまり頭に血が上ったが、上った気がしただけで、実際はさーっと血が引いていった。起き上がろうと手を地面についたが、全く力が入らない。入らないどころか、抜けていく。
(やべェ、目まで霞んできやがった)
 地面に倒れて初めて、ゾロは自分の体が酷く冷えていることに気づいた。接している土と変わらない温度かもしれない。
 もう十二月だというのにだ。
「お? 死んだか?」
「やりすぎだってば、サンジ君」
 少女の呆れた声を最後に、ゾロの意識は遠のいた。



 しゅんしゅんと、蒸気が立つ音が聞こえてきた。あたたかい、とゾロは久しぶりに安堵に似たため息を漏らした。息を吐くと自然と目が開いた。意識を失う前とは違って、物の輪郭がクリアに見えた。
「あ、起きた?」
 視界に入ってきたのは、先ほどの少女だった。蛍光灯の下でも、少女の髪は鮮やかなオレンジ色をしていた。
(室内、か?)
 ゾロは目だけを動かして周囲を窺った。どうやら自分はソファに寝かされていたようだ。頭をずらすと、テーブルとその向こうにテレビが見えた。少女はゾロの足元に座って本を読んでいたらしい。タイトルが『勝負師の株』と見えたが、気のせいだろう。
「どこだ、ここは」
「私の家。あんた六時間も寝てたのよ。休憩料金で換算するといくらなのかしら。毛布と枕の貸与金も加算するからね。ちゃんと耳を揃えて返しなさいよ」
 まったく、と少女は不愉快そうに言った。
「だから早く立ち退けって言ったのに。意味無かったじゃないの」
「ああ?」
 眩暈が治まっていたので、ゾロは肘を付いて起き上がった。背中に違和感があって見下ろすと、電気毛布が敷いてあった。あたたかいわけだ、と納得した。
「あ、起きたかてめェ」
 話し声が聞こえたのか、金髪の男がリビングにやってきた。手にはマグカップを二個持っている。
「はいナミさん。ココアだよ。こんな不審者と飲んでたら胃に悪いから、もう少し離れてなよ」
「大丈夫よサンジ君。そんなことでダメージ受けるほど弱くないわ、私」
「だよねー。さっすがナミさん!」
 金髪はにへらっと笑った。見るに耐えないほどにやけている。しかし、先ほどゾロを昏倒させた蹴りを持つ男である。少し警戒していると、金髪はゾロに向き直った。
「ほら、起きたならとりあえずこれ飲め」
 差し出されたマグカップを、とりあえず反射的に受け取ってしまった。マグは取っ手までが温かかった。
 中身は温めたミルクのようだったが、少し色が付いている。
「コーヒー風味のホットミルクだ。お前、何も食ってなかったんだって? なら最初はそれで胃を慣らせ」
「ああ?」
 なんで見知らぬ人間に飲み物を与えるのだろう。ゾロは訝しげに金髪を見上げた。親切には必ず裏がある。自分に利益があると思わないかぎり、無駄なことはしないものだ。
 この男が、ゾロへの施しで得られる利があるとは思えない。だからこそ、不気味だった。
「いいから、飲みなさいよ。毒なんか入ってないし」
 向かいの一人がけソファに座った少女が、ココアを飲みながら言った。なぜだか、こっちの少女の方がさきほどから偉そうだ。
 どちらにしても、腹は減りまくっている。草でも良いから口に入れたい、というぎりぎりの状態だったので、ゾロは何も言わずにマグカップに口をつけた。温かい液体がじわじわと喉を通り過ぎていく。ちょうど飲みやすい熱さだった。砂糖が入っているのだろう、少し甘い。普段は甘いものなど敬遠の対象なのだが、すんなりと受け入れられた。空腹とは恐ろしい。
「んで、なんでてめェは公園のベンチで死んでたんだ」
「あー」
 理由としては簡潔なのだが、答えるのも面倒だった。大体死んでいたわけではなく、少し休んでいただけだったのだ。
 そもそも、ゾロだってどうしてこうなってしまったのかよくわからない。
 同棲していた彼女が、突然家財道具一式を持ち出して実家に帰ってしまったのだ。家賃生活費もろとも、全て彼女持ち、という状態だったので、ゾロにはどうすることもできない。
 三日ほど前だった。家に帰ると、部屋の中身は見事に空っぽになっていた。大家に問い合わせると、胡散臭げに「もう新しい入居者も決まってるから入れないよ」と言われる始末だ。
 これだけ預かっていた、と大家に渡されたのはゾロのスポーツバッグで、中身は当面の着替えが数組と残高がゼロの通帳、そして、彼女だった女からの手紙だった。要約すると、「あんたみたいなろくでなしとはもう暮らしていけない」という内容だった。理由が完璧すぎて、納得する以外にない。鮮やかな最後通告だった。
 それからは、なけなしの小銭で安い菓子パンを買って飢えをしのいでいたが、それもすぐさま底を尽き、また別の女のところにでも転がり込むか、と思っていた。寝泊りは公園か改札で駅員の目を盗んで、という状態だったので、いい加減布団が恋しかった。
 どの女にしようか、と公園のベンチでぼんやりと考えていた。
 そんなときに、少女が声をかけてきたのだ。
 これまでのことをつらつら思い返していると、マグカップの中身がなくなっていた。
「おい、聞いてんのか?」
「ああ?」
 中身のなくなったマグカップの底から金髪へと目を移す。
「なんで公園にいたんだよ。あそこはな、浮浪者がたまに来るっていうんで、警戒ポイントなんだよ。てめェ、あと少しで通報されるところだったぜ? 絶対」
 なるほど、少女と話しているだけで蹴られたのは、浮浪者だと思われていたかららしい。全く失礼な話だ、とゾロは憮然としたが、似たようなものだったので黙っていた。何しろ、本気で金も家も無い。
「おい、さっきからなんでだんまりなんだ。てめェに黙秘権なんかねーぞ」
「別に黙秘してるわけじゃねェ」
「じゃあ何で理由言わねェんだよ。言いたくないのか? やっぱ犯罪者か? ナミさん狙いか?」
 浮浪者から犯罪者へ格下げされて、ゾロは言い返した。
「うっせェな、理由なんか知るか」
「んなわけあるか! さあ吐け今吐けすぐ吐け!」
(女並みにうるせェな、こいつ)
 腹も温まったし、さっさと退散しよう、とゾロは決めた。しかし、立ち上がりかけると右の側頭部が痛んだ。思わず手で押さえると、じくじくと熱を持っていた。気づかなかったが、左もぴりぴりと痛みを訴えてくる。そちらは絆創膏が貼ってあった。地面に倒れたときに出来た傷だろう。
(自分でつけといて、手当てするか普通)
 バカなのか? と思いながら改めて見上げると、金髪はあからさまに目を泳がせた。
「なんだよ、別にいいだろ? 顔に傷がついたって、レディじゃないんだし。手当てしてやったんだから文句言うなよ? 男にするのは破格のサービスなんだ」
 こちらが何も言っていないのに、言い訳をしてきた。
(なんだこいつ)
 少し面白い、とゾロは思った。少女に次いで、ほんの少しだけ興味が芽生える。
 考えてみれば、少女と金髪は不思議な組み合わせだった。兄妹にしては文字通り毛色が違う。
「サンジ君サンジ君、話が進んでないってば」
「ああっ、ごめんねナミさん」
「あんた、それ飲み終わったんでしょ? 理由はいいから、さっさと出てってくれる?」
「ああ、悪かったな。世話んなった」
「ちょっと待て、お前、ちゃんと帰るところあんだろうな?」
「さあな」
 これからいくつかある候補の中から選ぶので、あると言えるはずだが、まだ決定していないので無いとも言える。ゾロは嘘をつかない人間だったので、どちらにも取れる答えをした。
「さあなって、本気で浮浪者かよ」
「違う、と思う」
 ゾロは否定した。金もなく家もないというのを浮浪者というのなら、ばっちり当てはまるが、肯定したくはなかった。認めてしまうのは、さすがに情けない。
「思う≠チてのはなんだ!」
「知るか」
「……まさかお前」
 金髪は目を見開いた。
「記憶障害か……!?」
(……なんでそうなる)
 ゾロは唖然とした。金髪の後ろにいる少女は、諦めたようにため息をついていた。
「うそだろ? 蹴り落としたくらいで記憶が飛ぶか? いやでも、おれ様の蹴りの威力は半端ねェからな。そのくらいのダメージを与えても仕方ねェかな」
 金髪は一人納得して首を捻っている。その後方では、少女が飽きたのか、空いたマグカップの取っ手を人差し指にかけて、ぶらぶらと揺らしている。
 その時、ゾロの腹が鳴った。ぐうう、と盛大に鳴る。少し間抜けに室内に響くので、ゾロは舌打ちした。
 あのホットミルクがまずかった。完全に食欲を刺激している。胃が「もう受け入れ態勢ばっちりですよ! むしろさっさと来い!」と言わんばかりにゴーサインを出している。
「……仕方ねえ、夕飯も食わしてやる。残り物だが、文句言うなよ」
 一体、何が「仕方ない」のかよくわからない。
「てめェの頭がバカになっちまったのはおれのせいだしな。しばらく面倒みてやる。ちゃんと思い出したら家に帰れよ?」
 しばらく待ってろ、と言い置いて、金髪はリビングを出て行ってしまった。
「……ああ?」
 金髪が出て行ったリビングの入り口を見ていると、少女がゾロの手からマグカップを奪い取った。
「だから早く出てけって言ったのに。あー、面倒くさい」
「おいガキ」
「私の名前はナミよ」
「おいナミ」
「いきなり呼び捨てってどうなの」
「ああ? あいつみたいに『さん』付けで呼べってか? どんな冗談だ」
「まあ、そこまでは私も強要しないわよ」
 ナミはマグカップを二つ、テーブルに置くと、やれやれ、と言いながらソファに座った。
「まあ、ご飯食べてけば? 軽々しく声掛けちゃった私もまずかったし」
「あれは何だ?」
 もはや、「誰だ」ではなく「何だ」だった。金髪の思考回路はゾロと全く交わっていない。
「サンジ君って言うの。私の叔父さん」
「おじさん?」
「そう。ちょっと過保護な叔父さん」
「過保護ってああいうもんだったか?」
 ちょっと違うだろう、とゾロは異議を唱えたくなった。
 リビングの向こうから、食欲をそそる匂いと、鼻歌が聞こえてきた。音程がどこか外れている。
 ゾロの腹が、再びぐうう、と鳴った。









2011/6/25

OFFページへ


inserted by FC2 system