引力を信じる?
【1】
暑い。
ぽっかりと思考に隙間が出来ると、浮かんでくるのはその言葉ばかりだった。何しろ夏だ。暑いのは当たり前だ。
しかし、それにしても暑い。暑くて死にそうだ、とサンジは思った。
「あっちィー。おれ絶対この夏乗り越えらんねェ」
思うだけでなく口にすると、隣を歩いていたゾロはうんざりしたようにため息をついた。
「学校出てから何回目だ。いい加減にうぜェよ」
「うっせえ。暑いもんは暑いんだっての。てめェこそ、よく毎日あんな暑苦しい場所に通えるよな」
ゾロは剣道部員なので、放課後は毎日畳敷きの武道館に居座っている。居座っているどころか、汗まで流す。それも男子生徒が集団で。サンジにしては信じられない世界だった。
「毎年毎年、同じこと言いやがって。冬になればなったで、寒くて死にそうが口癖だしな。うぜェ」
心底面倒くさそうな口調で言われても、サンジは反論しなかった。言い返す気力もないくらい、実は本当に暑さにやられていた。意地で歩いているが、このまま倒れこみたいくらい、視界がぐらぐらと揺れる。歩いているアスファルトが歪む。
夏の暑さが苦手なのは事実だった。それでも、それだけが原因ではないのかもしれない。
夏風邪でも引いたか?
とサンジは霞む目を瞬かせながら思った。でも、熱はないし、喉が痛いわけでもない。貧血とも違うような気がする。
ただ、足が思うように動かない。
「サンジ?」
いつの間にか立ち止まっていたようで、ゾロの声が前方から聞こえた。
どうやら、横断歩道のど真ん中で止まってしまっていたようだ。
「早くしろよ、赤になんぞ」
おう、と片手を上げようとしたが、その手もだらりと垂れたままだ。
キイイン、と耳鳴りがする。
やっぱり、夏は嫌だな、と思った時に、ゾロの声がまた聞こえた。
「サンジっ!」
切羽詰った声と、車の音が聞こえたのは同時だった。サンジは首を巡らす。
クラクションと共に、ワゴン車が迫ってくるのが見えた。こういう時はスローモーションで見えるというのは、本当らしい。
死への恐怖よりも、そんなことしか頭に浮かばなかった。
***************
目の前に、キッチンがあった。
(キッチン? 何でいきなり)
とサンジは思った。しかし、疑問とは裏腹に、なぜかしっくりとこの場に馴染んでいる。
「よっし、仕込み終わり」
とサンジは腕まくりをしていたシャツを直した。それが自分が全く意図をしていなかった行動だったので、サンジは驚いた。驚くサンジを置き去りに、腕は勝手に動いて、今度は台に置いてあった布巾を掴んだ。
(ちょっと待て!)
まるで誰かに体を乗っ取られているようだ。
しかし、目に入る腕は、違和感はあるものの、自分の腕のように見える。しかも、疑問を感じる心とは別に、どこか高揚した気持ちも感じられる。
(どうなってんだ、これ)
サンジの心を置き去りに、腕は手際よく掃除を続けている。その掃除の手順なんかは、普段サンジが行っているものと、ほとんど同じだった。
綺麗に台を拭き終わって、布巾を洗っていると、バタンと扉が開いた。びくりともせずに、サンジの体は勝手に後ろを振り返る。
「サンジっ! おやつははまだかァ?」
「何回目だよクソゴム。あと五分待て。表に持ってってやるから」
またしても全く意図していない言葉が漏れる。それはちゃんと、『サンジ』の声だった。
(どうなってんだ。しかもルフィまでいやがる)
クラスメイトのルフィは、制服ではなく、ノースリーブのシャツに半ズボンと、まるで南国にでもリゾートに来たかのような格好をしている。しかも頭には麦わら帽子を被っている。
「待てねェ!」
「待ても覚えられねェようじゃ、おれのメシは食わせねェぞ!」
そう『サンジ』が言うと、ルフィはとても情けない顔をした。
「ひでェよサンジ! お前、おれのコックだろ!」
「お前のコックでも、全てにイエスと言うわけねェだろ。いいからあと三分だ、待ってろ、あっち行け」
しっし、とまるで犬を追い払うように、『サンジ』は手でルフィを追い立てた。心底無念そうに、ルフィが扉の向こうに出て行ってから、『サンジ』はふっと笑った。
「ったく、世話のやける船長だぜ」
そうは言いつつも、『サンジ』の口調は楽しそうだった。
(……てか、船長ってなんだ)
ここまできて、サンジはこれが夢なんだな、と何となく気づいた。たまに、夢をちゃんと「夢」だとわかった上で見る事がある。きっとこれもその一種なのだろう。
(それにしちゃ、変わってんな)
気分的に首をかしげたところで、背後から「チン」と音がなった。
「お、出来たか」
すたすたと向った先はオーブンで、『サンジ』は鍋つかみを着用した。立派なオーブンを開くと、甘い匂いが熱気と共に顔に当たる。
「よし、成功」
匂いからして、みかんを使ったマドレーヌらしい。
(すげェ、匂いまで分かる)
夢にしてはサービス満点である。『サンジ』はオーブンから取り出すと、手早く大皿に並べた。あつあつのマドレーヌで、皿は一杯になる。一杯になるどころか、積まれている。
(作りすぎだろ!)
サンジの突っ込みは通じない。『サンジ』は鼻歌を歌いながら、キッチンから出て、扉を開いた。
「んナミさーん、ついでに野郎どもー! おやつだ!」
「待ちくたびれたぞサンジー!」
ルフィの手が伸びてきたので、サンジはぎょっとした。
なにしろ、文字通り、「伸びた」のだ。伸びた手でマドレーヌを掴んで引っ込んでいく。
(なんだあれ!)
わめくサンジを余所に、『サンジ』はいたって冷静だった。
「ちゃんと味わって食えよ!」
「サンジくーん、私にもちょうだい」
「もちろんだよォ、ナミすわんっ! てか、先にゴムにとられてごめんよお。真っ先にナミさんに味わって貰いたかったのに!」
「はいはい、別に後でも味は変わらないから良いわよ」
「優しいナミさんも素敵だー!」
どうやら『サンジ』は女に弱いらしい。くねくねと体を揺らしている。そんなところは一緒らしい、と一応自覚のあったサンジは、少し微妙な気持ちになった。
「っと、ほらウソップ、ゴムにとられる前に食え」
「お、サンキュー」
とウソップが手を伸ばしたところで、ルフィの手がまたしても「伸びて」きた。
「ああっ、ルフィー! てめェっ、それおれのだぞ!」
ウソップの分のマドレーヌを詰め込んだルフィを、ウソップが追いかける。ナミに紅茶を入れる準備をしながら、『サンジ』は笑った。
「子どもね」
肩をすくめながらも、ナミは嬉しそうだ。振り返って、サンジに笑いかけてくる。
風が吹いて、ナミのオレンジ色の髪が揺れている。ナミの背後には、雲ひとつない空と、海が横たわっている。
(海? なんでまた海の上?)
今更回りの様子が普段と違うことに気づいた。最初から異なる点は多々あったが、景色も覚えがないところだ。何しろ、空と海しかない。冴え冴えとした青い色彩しかない。しかも、地面は揺れている。
(てか、船に乗ってんのか?)
足許から伝わる揺れで、サンジはそう判断した。
「サンジ君、このみかんのマドレーヌ、すごく美味しい。もしかして、ノジコから聞いたの?」
「あ、ばれた? みかんが好きだって聞いただけなんだけどね」
「ありがとう」
疑問符だらけのサンジを放って、二人の会話は続いていたようだ。
にっこりと笑うナミは可愛かった。
(ナミさんは夢でも可愛い。ってか、夢なんだから考えるだけ無駄か)
やっと納得した時、背後から声が聞こえた。
「甘めェな、なんだこの匂い」
振り返ると、緑の頭が見えた。
(ゾロ)
「おせーぞマリモ。お前もいるか? おやつ」
にやりと『サンジ』が笑うと、ゾロは頷いた。
「くれ」
どうしたことか、『サンジ』の手が止まった。
(なんだ?)
酷く、動揺しているのが伝わってくる。ゾロに「くれ」と言われただけなのに、動揺と、困惑と、そして少しだけ「嬉しい」という感情が入り混じっていた。
「てめェのお口には合わない上品な味だからな。心して食えよ」
「いちいちうるせェな。食えりゃいい」
「……そうかよ」
今度は「落胆」の気持ちが伝わってくる。この夢の『サンジ』はよくわからない。
それにしても、不思議な夢である。
サンジはゾロの腰に日本刀らしきものが三本も差さっているのを見て、思った。
(欲張りすぎだろ、それ)
笑えるなら、思いっきり指を差して笑いたいところだ。それから、刀を差している腰から腹部に目を移して、サンジは気持ちの上で目を見開いた。
***************
「なんだその腹巻!」
と叫んで目が覚めた。視界に入るのは白一色だった。青い色彩ばかりを見ていた気がしたので、とても味気なく感じる。
というか、どこなのだろうか、ここは。どうやらサンジは仰向けに寝ているようだった。
「……あ?」
「『あ?』じゃねェよ。……腹巻がなんだって?」
応えがあったので、サンジは声のする方に首を傾けた。途端に、頭部に痛みが走る。ぴりっとした鋭い痛みだった。
「い、いてェ」
痛いという声すら精彩がない。生理的な涙がじわりと浮かぶ。
「たりめェだ。でっかいたんこぶがあるからな」
聞きなれた声が、頭上から降ってきた。滲んだ視界の中に、緑の頭が入り込んできた。ゾロの声は低かった。
「あれ、おれ、どうしたんだっけ」
ゾロは大きくため息を吐いた。
「ボケてんのかてめェ。歩道の真ん中でぼんやり突っ立ってて事故にあったんだろ。アホか。いや、アホなのは知ってたけどよ。馬鹿か。いや、馬鹿なのも知ってる。間抜けだな」
「うっせェっつの」
そう言えばそうだった、とサンジは痛みに眉を顰めながら、記憶をたどった。コンクリートで熱せられた空気を思い出した。歩道の真ん中で立ち止まったまま、歩けなくなってしまったことを。きっと、熱中症になりかけていたのだろう。
(海の上の方が、暑いんだけどな)
と考えて、サンジは眉を顰めた。
(海?)
どっからその発想が来たんだ、と思うより先に、青いイメージが脳内に溢れてきた。
空の青と、それを凝縮したような海の青。そして、潮風の匂い。べたつくような暑さ。
(さっきの夢か)
余りにも鮮やかに脳裏に甦るので、一瞬「夢」のことだと思い出せなかった。現実にあったことのように思えた。
「……おい、生きてっか?」
視界にゾロの掌が映ったので、サンジははっとゾロに目を向けた。
「目がイってっぞ」
「……おれは繊細なの。事故った後の衝撃が残ってんだよ」
「医者は何でもないって言ってんぞ? 頭のたんこぶ以外はどうってことないってな。意識戻ったら帰っていいそうだ」
「へーへー、そうですか」
意識を半分夢の方に引っ張られながらも、サンジは起き上がった。
「いて」
頭にたんこぶが出来ているというのは本当らしい。右の側頭部がじわじわと痛む。まだ触ってみる勇気はない。
「ううう、せっかくのおれ様の形の良い頭が……」
「てめェのは一度変形した方がいいんじゃねェのか。ぼこぼこにな」
「なってたまるか!」
ゾロはぎしりと音を立てて、簡易椅子から立ち上がった。
頭はずきずきと痛みはしたが、他に痛みを訴える箇所がないので、サンジもベッドから降り立った。いつの間にか、足元に伸びる影が長い。日暮れの一歩手前だった。
ふと気づいて、サンジはゾロを見上げた。
「お前、道場はどうした?」
今日は通っている道場へ行く日だった。ゾロは憮然としてサンジを振り返った。
「休んだ」
「……そりゃ悪かったな」
さすがに悪いという気持ちになった。何しろ、ゾロはサンジの知る限り、ほとんど道場を休んだことがない。例外は、一度高熱が出たときだけだ。それも、稽古中にぶっ倒れたのだから、相当な根性である。
「なら明日のおにぎりの具はエビマヨな」
ゾロはにやりと笑った。
「今日食ったばっかじゃねェか。ふざけんな」
「稽古を蹴って一時間も待ってたんだがな、おれは」
「はいはいエビマヨね! 承ったぜちくしょう!」
やけになって言うと、ゾロはガキくさい顔で笑った。
以下続。
2010/06/22