永く、長く。





 逃してはならない一瞬というのがあるのだと、ゾロは初めて知った。



 放課後の教室は、すでに異空間だ。
 あれだけ騒がしかった昼間とはうって変わって、しんと静まり返っている。昼間は自分の足音など聞こえないほどなのに、今は一歩一歩が耳障りだ。自然、そっと忍ばせるように歩いてしまう。
 それにしても、奴はどこに行ったんだ、とゾロは苦々しく思った。
 顧問の先生を探してこいと先輩に言いつけられてしまったことは、ゾロにとっては大変不幸なことだった。何しろ、入学して一年以上経つのに、ゾロは学校の構造が良くわかっていない。職員室と自分のクラスと、武道場。それだけ把握していればとりあえずは困らないので、積極的に覚えようとしてないことが敗因だった。移動教室の時なども、友人が先導してくれるので、ゾロは努力をしようともしていない。
 とうとう、ここが何階なのかもわからなくなって、ゾロは廊下から中庭を見下ろした。ゾロのクラスから見える景色よりも、位置が高い。三階だな、とあたりをつけた。
 もう見つからなかったと正直に謝罪して、練習に戻ろうか。大体、すぐに面倒臭がって逃げてしまう顧問が悪いのだ。そう思って、ゾロは来た道を引き返した。
 階段の手前の教室を通りかかった時、ふとその扉が開いているのが見えた。他の教室はぴったりと閉ざされているので、やけに目につく。何より、開いたドアから西日が射していて、廊下を四角く光らせていた。
 閉めるか、と何の気なしに近づいて、ゾロは中に人がいるのを発見した。
 ここは特別教室だったらしい。扉のすぐ近くに下駄箱があり、一段高いところに畳が敷かれている。武道場以外に畳の部屋があったのか、とゾロは少し驚いた。といっても、ここは明らかに文化部の住処だ。
 中にいる人物は、じっと座って手を動かしている。
 小さな文机がいくつか並んでいる。窓際の前から二番目の席。逆光でよくわからなかったが、男子生徒のようだった。
 特別不思議な光景でもない。一人きりの部活だってあるだろう。
 中に人がいるなら、扉を閉める必要もない。そのまま武道場に戻るだけでよかった。けれど、ゾロは足の裏に根が生えてしまったように、その場から動けなかった。手も、不自然に扉へと伸ばしたままだった。
 空気がきれいだ、と思った。
 あとで思い返してガラでもないと笑ったのだが、ゾロは確かにその時はそう思った。
 西日が射した教室は、濃いオレンジに染められていた。つかめそうなくらいに濃い色。対照的に、オレンジの光が作る影は黒々としていた。文机の影も、中にいる人物の影も、畳に長く伸びている。
 男子生徒は学ランを着たまま、文机に向かっていた。筆をゆっくりと動かしている。習字だ、とゾロは思った。
 文鎮で押さえられた半紙に、筆を垂直に立てて、ゆっくりと定める。下ろす。書きはじめは同じくゆっくりと、けれどそのあとは流れるように早く、筆は指の延長のように自然に動いていた。
 ゾロからは、何を書いているのかは見えない。オレンジの光に照らされて、白いはずの半紙までもが例外なく色づいていた。
 ふう、と呼吸が聞こえて、ゾロははっとした。
 男子生徒は筆を置いている。しばらくじっと半紙を見下ろした後、首を傾げた。納得がいかなかったのだろう。文鎮を外して、半紙をぐしゃぐちゃと丸めた。チッと舌打ちまで聞こえる。
 一気に夢から覚めたような感じだった。ゾロの眉も自然と寄る。
 男子生徒は丸めた半紙をぽいと投げ出した。重さを感じさせない音が、ぽとりと畳の上に落ちる。
 ゾロはそっと扉から離れた。
 最後に見た男子生徒は、窓へと視線を投げている。見かけない奴だな、と思った。
 髪が明るい色をしているのだけはわかった。オレンジに染められて、元の色はよくわからなかった。



 何となく、放課後の光景を、ゾロはそれからよく思い出した。
 あのぴんと張り詰めた空気は、道場での立ち会いの一瞬に似ているような気もした。けれど、いつぶつりと切れるか分からない、ぎりぎりの緊張感とは逆に、あの空気は弛むことを待っているような緊張感だった。
 だから、終わった後に、息が漏れたのだろう。
 自分でも不思議だったが、ゾロはなんどもあの筆の動きを頭の中で繰り返した。
 習字なんて、中学を卒業して以来、やっていない。ゾロは字を書くことが下手だったので、必然的に習字も苦手な部類だった。楽しいと感じたことなど一瞬もなかったし、むしろあの重い道具を持たされることが嫌でたまらなかった。文鎮を投げて怒られたこともある。
 おそらくこれからもゾロが筆を取ることはない。
 そういえば、あれは誰だったんだろう。
 今更のように、ゾロは思った。



 放課後の書道室に行けば、きっとあの生徒が誰なのかわかるのだろう。けれど、それからしばらく、ゾロは確かめることをしなかった。
 確かめて、誰かを知って、そうしたら、この昼の学校で見かけることになるのかもしれない。
 あの空気を知ってしまったあとで、騒がしい昼間の空間に彼がいること。それはとてももったいないような気がした。せっかくきれいだったのに、とゾロらしくなく、感傷的な気分になっていた。
 自分でもおかしいと思う。これでは勝手に理想を押し付けてくる同年代の少女たちと変わらない。そこまで考えて、ゾロは憮然とした。
 失礼なことをしている、という自覚があった。
「おい、ウソップ」
「ん? なんだあ?」
「お前、書道部ってどこにあるか知ってるか?」
「ああ? 知ってるも何も、美術部の隣じゃねェか。わかるだろ」
「わかんねェ」
「……ああ、そうだよな。お前だもんな」
 うんうん、とウソップは納得したように頷いた。ハタと気づいたように、後ろを振り返ってゾロを怪訝そうに見てきた。
「ていうか、何で書道部? 用事でもあんのか?」
「ああ」
 ゾロは頷いた。
 あの場面だけを綺麗に取っておいて大事にして、勝手に美化して。理想を押し付けていることが気持ち悪かったので、ゾロは確かめてやろうという気持ちに変わっていた。
「つーか、書道部なんて一人だけだぜ?」
「ひとり?」
 それで部活が成り立つのかよと問いかければ、ウソップはそりゃあなと頷いた。
「うちの学校は文化部少ねェからな、積極的につぶすこともしねェんだろうよ。顧問もうちの美術部のセンセーだし。だからたまにおれも覗くけど。あいつ以外見たことねェもんな。つーか、あいつが入るまで部員ゼロだったし」
「あいつ?」
「そいつに用があるんじゃねェのか?」
「誰だ?」
「……誰だか知らないのかよ」
 何しに行くつもりだったんだ、お前。ウソップは呆れたように肩を竦めた。それ以上突っ込んでくる様子がないのは、もうゾロだからと諦めているのだろう。
「で、誰だよ、書道部」
「一組のサンジ」
「誰だ?」
 やっぱり知らない名前だった。
「あいつ知らないって、ほんと仙人の類だよ、お前は。今年入ってきた転校生だって。かなりな騒ぎになってただろ」
「へえ?」
 二年になってもう三か月以上が経つ。転校生の噂なんて聞いたかな、とゾロは首をかしげた。
「まあ、一組は校舎が違うからなあ。そうか、さすがゾロだ」
 ウソップはなぜかしんみりとしている。
「すっごい目立つ金髪だから、見たことはあると思うぜ?」
「金髪」
「そう」
 あっそ、とゾロは興味を無くして頬杖をついた。
 何となく、オレンジ色の髪をしているのではないか、と思っていた。やっぱり美化しまくっているようで、ゾロは自分の思考にうんざりした。我ながら気持ち悪い。
 でも、あの光景は本当にきれいだったのだ。また見たいな、とそんな柄にもないことをゾロに思わせるくらいに。



 そうは言っても、ゾロは部活に忙しい。放課後になれば武道場に直行するため、書道室に行ってみるなんて気まぐれは許されなかった。
 だから、ゾロが再び書道部の扉の前に立ったのは、あれから二か月も後のことだった。また、顧問を探して来いと放り出されたのだった。ゾロは再び、あてもなくも校舎をさまよい、上の階へと流れついた。意識してはいなかったけれども、同じ場所へと来てしまったようだった。
 特別教室の廊下は、他の階と空気が違う。雰囲気がというわけではなく、明らかに匂いが違う。畳が温められた匂いに、美術室から漂ってくるのであろうテレピン油の匂い、あとはよくわからない、いろいろな匂いが混ざっている。ゾロはこの階に何があるのかもわかっていない。
 今日の書道室の扉は全開に開いていた。まだ夕暮れには早い。明るく白色の光が廊下に漏れていた。光は強く、ゾロの目の奥をじわりと焼いた。
 まばたきを繰り返しながら教室を覗くと、男子生徒がひとり、仰向けになっていた。  文机を横に押しやって、中央で手足を投げ出している。
 姿形は、記憶の中でもうぼやけてしまったあの人物に似ていると思ったが、印象はあまりにも違う。ただだらけている高校生男子だ。今日は書かないのだろうか。少しだけ残念な気持ちになった。
 武道場に戻るかと踵を返そうとしたとき、男子生徒の頭がくたりとこちらを向いた。
「あれ? 入部希望者? じゃねェよな。運動部か?」
 そう言いながら男子生徒は肘をついて起きあがった。その場で胡坐をかいてゾロを見上げている。
「お前、もしかしてロロノア・ゾロ?」
「そうだけど」
 何で知ってんだと思う間もなく、彼は笑った。
「やっと来たのかよ! ウソップから聞いてんぜ。おれに用があるんだろ? いつか行くかもしれないからよろしくって言われた」
 くつくつと笑いながら、彼はゾロを手招いた。
「まあ、入ってこいよ。どうせ暇だし。あ、ちゃんと上履きは下駄箱に入れろよ」
 彼は立ち上がって、教室の隅へと歩いていく。水場の隣にあるポットから、急須にお湯を注いでいる。いや、戻るから、とは言いだせない状況になってしまった。
 少しだけ迷った末、ゾロは畳の上に上がった。言われたとおり、ちゃんと上履きは下駄箱に入れる。畳に乗り上げると、井草の匂いが濃く香った。道場の汗が染みたにおいとは違って、清々しかった。知らず知らず、深く呼吸をする。
「ほらよ。熱いから気をつけろ」
 行儀悪く足で文机を引き寄せて、彼はその上に湯呑みと菓子を載せた。なんとも優雅な部活である。部活中は水以外口にしてはならない、という暗黙の了解の中で育ったので、部活中に手を出すのはためらわれた。しかし、茶ぐらいならいいか、とそちらだけ啜る。
 振るまった当人は、ゾロの目の前に腰をおろした。間近で見て今更のように気づいた。彼の頭は本当に金髪だった。
「で、何の用なわけ? 面識ねェよな?」
「ああ、まあな」
 別に会いたかったわけではない。単に、彼が習字をしている姿を見たかっただけだ。そんなことを正直に言えるわけがない。随分な変態扱いをされて終わるだろう。
 説明のしようがなくて、ゾロは黙った。
「何、用があるんじゃねェのか?」
 彼は不思議そうに首をかしげた。
「いや」
「ああ?」
 不審そうに眉を顰められる。その眉を見て、ゾロは少し笑った。
「おまえ、変な眉毛してんな」
「初対面でいきなりそれかよ! いいだろほっとけ。サンジくんの眉はチャーミングねって女子には大人気なんだから」
 そうか、そう言えばサンジという名前だった、とゾロは今更ながらに思い出した。ウソップによる情報は、すべて後付けの知識となっていく。本人が聞いたらため息をついて嘆くだろう。
 サンジは不服そうにゾロを見ている。
「つーか、ほんとなんなのお前。なにしに来たの」
「さあ」
「さあ、って」
 自分でもふざけた返事だと思った。サンジは呆れたように溜息をついた。
「噂どおりに、変な奴なのな、お前」
「噂?」
「あんた有名人じゃん。剣道で全国制覇したんだろ? すげェな、まだ一年だろ?」
 なるほど、それで知っているのか、とゾロは納得した。
「ていうか、お前、こんなとこで暇潰してていいのかよ。練習、行かなくていいのか?」
「これを飲み終わったら行く」
「あっそ。……ほんと、何しに来たんだてめェは」
「おれのことは気にすんな」
「はいはい、そうですか」
 んじゃ、ぼちぼち書くかね、と伸びをしてサンジは立ちあがった。窓際の前から二番目の文机の前に座る。他の列は全部隅に寄せられていたが、窓際だけはちゃんと並んでいた。部員は一人だというのにちゃんと机がそろっているのは、選択科目で書道があるからだ。ゾロは当然のように選択していないため、ここに入るのは本当に初めてだった。
 サンジは筆を握って、墨をつけている。あの時のようにぴんと張った緊張感はなく、肩から力が抜けている。窓から注ぐ光はまだ白い。
 机が低いので、伸びあがらなくても何を書いているのかが丸見えだった。小さい頃使った半紙と同じ、漢字二文字を書くのが精一杯の大きさだ。部活なのだから、もっと仰々しい紙に書いたりはしないのだろうか、と少し思った。
 書かれた文字は、『永』だった。半紙の上下に同じ文字を連ねている。
「なんで同じ字を書いてんだ?」
「ああ? 練習だからだよ、練習。お前だって、毎日素振りとかすんだろ? それと一緒。手慣らし」
 あっそ、とゾロは失礼な相槌を打った。それにしても、とその書かれた文字を見て思う。
「字ィ下手だな、お前」
 思うだけでなく、声に出ていた。
 サンジは非常に不機嫌そうな顔をして振り返る。
「失礼だぞてめェ! おれは初心者なの! 筆なんてこっち来てから握ったんだ! そのうち上達すんだから、黙ってろ!」
 余計なことを言ってしまったらしい。そう言えば、彼は転校生だったとウソップによる知識が蘇る。金髪は地毛に見えた。外国から来たのかもしれない。外人特有の、日本文化フリークなのかもしれない。日本人がもう手放そうとしているものを、宝物のように思ってくれる異国の人間。
「知ってっか? 習字のはじめって、この字を書くんだぜ」
 機嫌を直したのか、サンジが話しかけてくる。
「そういや、おれも書いた覚えがあるな」
 たいてい、習字で提出する文字など決まっている。永遠・希望・明日・未来。
「『永』って文字には、習字の基本が全部つまってんだと」
 新しい半紙を敷いて、サンジは筆を動かす。
「点、よこ、トメ、ハネ、払い」
 呟きながら、筆を滑らせる。
「おれ、払いが苦手なんだよ」
 確かに、右の払いが寸足らずになっていた。
「点、よこ、トメ、ハネ、左の払い、右の払い」
 歌うように、サンジは口ずさむ。ああ、こいつほんとに書道が好きなんだな、とゾロは思った。
 夕方前の日差しの中で、サンジの顔がよく見える。
 生き生きとしていた。
「あー、やっぱりうまくいかねェや」
 困ったように眉を寄せる。しかし、口元は緩んでいる。
 あの時のように止まってしまうほどの空気ではなかった。まるっきり日常の、どこにでもいる男子生徒だ。
 それでも、気づけばゾロは文机ににじり寄って、文鎮に手を伸ばしたサンジの手首をつかんだ。
 同じ男なのに、手首は細かった。ゾロの掌と指の中にすっぽりと納まる。
「あ?」
 何すんだ、という顔をしているサンジの手を引き寄せる。伸び上がって、ゾロはぽかりと開いた唇に口づけた。
 ぼやけた視界の中で、目を見開いたのがわかった。目の色は青かった。
 墨とか、黒とか、そういう日本人によくある色はこの人間には備わっていないのだと思うと、なぜかじわりと胸の奥が熱くなった。
 ぽかんと開いた口に口づけたので、ゾロは調子に乗って舌まで入れた。生暖かい粘膜が気持ち良かった。サンジの舌は引っ込んでいたので、下唇を吸ってから離した。
「な、な、な、……っ!」
 サンジは唇を覆って、後ずさった。可哀想なくらいにうろたえている。まあ当然の反応だろうと思った。ゾロが逆の立場でもうろたえる。顔に出るかどうかはわからないが。
「大丈夫か」
「おま、お前が、言うのかそれを……っ!?」
 文机を蹴とばしそうな勢いなので、ゾロはそっと文机をスライドさせた。硯に残った墨汁がゆらゆらと揺れる。波を作る。
「んじゃ、おれそろそろ行くわ」
 時計を見れば、そろそろ限界だった。嫌味な先輩方がうるさいだろう。
「……はあっ?」
「茶、美味かった。ごちそうさん」
「茶って、あのな、」
 もはや茫然とするしかなくなっているサンジを見下ろして、ゾロはにやりと笑った。親指で唇を拭う仕種をする。
「もうひとつ、ごちそうさん」
「おおおお、お前っ!」
 片手を文鎮に伸ばすのが見えて、ゾロはさっさと退散した。
 扉を閉めたとたん、背後にごすんと重い音が響いた。どうやら本気で投げたらしい。
「また来る」
 少し大きい声で中に呼びかけると、すぐに応えがあった。
「二度とくんなーーーー!!!!」
 放課後の校舎に響き渡るくらいの絶叫だった。
 ゾロはくつくつと笑った。
 なんだかとても楽しかった。長い付き合いになりそうだ、と勝手に決め付けた。





習字のくだりはテケトーです。
出てきませんが、顧問はミホーク。放置主義の放浪癖あり。
ゾロはその後熱烈アピールをして、墨文字で「好き」と書かれたラブレターをゲットする、といいね。


2009/9/29

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