ストレートラインの向こう側





2



 翌朝は、すっかり晴れていた。昨晩のうなるような風が嘘のようだった。
 部屋を出ると、包丁の音がしていた。冷たい床の上を歩いているうちに、すっかり目が覚めていた。
(あいつ、大丈夫かな)
 納屋がある方を覗きたくなった。
「チビナス、遅ェぞ。さっさと顔洗って飯を食え」
「わかったよ!」
 ゼフの声で、サンジは洗い場に行った。瓶から水を掬って、顔を洗った。昨晩外に出たせいか、水が少し濁った。
(飲む水だけじゃなくて、ちゃんと体を拭く水と、タオルと、薬と、あと食べ物も)
 無意識に、納屋に持っていくものを考えていた。
「チビナス! さっさとしねェか!」
「わかったって言ってんだろ!」
 ゼフの怒鳴り声に、サンジは慌ててキッチンへと走っていった。
 食卓はすでに朝食が並べられていて、サンジが来るのを待っている状態だった。
 いただきます、と言いそうになったが、寸でで堪えた。心の中でだけ唱える。
(いただきます)
 やっぱり、良い言葉だと思う。なんだか、唱えることで、食べることを許されたような気持ちにすらなる。
「おいチビナス。今日は店に来るんじゃねェぞ。外に遊びにも出るな。家で勉強してろ」
「……なんで?」
 ゼフは憮然としていた。いつも強面をしているゼフだが、これは明らかに機嫌が悪い。
「そういう風に決まったんだ。村の子供はみんなそうだ。あの悪ガキ共とも遊ぶなよ。家にいろ」
「……わかった」
 サンジはこくりと頷いた。家の敷地内なのだから、納屋はいいだろう、と勝手に思い込んだ。問えばノーと言われるだけなので、サンジは黙ってスープを飲んだ。
 ゼフの朝食は、文句なしに美味しかった。



 ゼフが出かけてすぐに、サンジは朝食の残りのソーセージと、作り置きしてくれた昼食をバスケットに入れた。戸棚にあったパンも全て詰め込む。昼はポトフだった。深皿に肉を多めに入れて、蓋をする。水筒に水を入れて、サンジは納屋へと駆けていった。
 小さくノックをして入ると、男の姿はなかった。
「あれ?」
「ガキか」
 すっと、暗がりから男が姿を現した。隅にある藁の奥に、隙間を作ったらしい。
「これ、食いもん。とりあえず、食ってろ」
 持ってきた荷物を下ろすと、サンジは納屋を出て行った。家に引き返して、今度はタライに水を張って、脇の下にタオルを数枚挟んだ。酷く重かったけれど、サンジは水が零れないように気をつけながら、納屋に引き返した。念のため、誰かが通りかかってサンジの家を覗いていないか確認した。
(おれは、どうしてこんなことをしてるんだろう)
 明るい昼間に、こんな大きなタライを抱えて。なんだか現実感が薄かった。
「食ったか?」
 ギイ、と音を鳴らして納屋の扉を開ける。足元に置いたタライを持ち上げると、少しだけ水が零れてしまった。
「今度は何を持ってきたんだ、お前」
 男は呆れたように、サンジの手元を見た。まだ食事に手を付けてはいなかった。藁の上に胡坐をかいて座っている。
「体拭きたいだろ? 清潔にしねェと、傷が膿んだりするんじゃねェのか?」
 よいしょ、と男の目の前にタライを置くと、やっぱり水が零れてしまった。
「ほら、タオル」
 男に向って投げると、彼は憮然としていた。相変わらず、にこりともしない、無愛想で怖い顔をしていた。
「変なガキだ」
 そう言いながら、男は着ていた服を脱ぎ始めた。傷が痛むのだろう、眉がきつく寄せられた。
 露になった上半身を見て、サンジは思わず息を呑んだ。心臓がどくどくと音を立てる。
「あんた、なんで生きてんの……」
 酷い傷を負っているというのはわかっていた。服は血まみれだったし、昨日はほとんど動くこともできなかった。しかし、ここまでだとは思わなかった。
 男の胸から腹、そしてわき腹へと、一筋にぱっくりと割かれた傷があった。縫合の跡もあったが、まだ生々しく、鮮やかな肉の色が見えた。サンジは吐き気がこみ上げてきて、生唾を飲み込んだ。
「昔の傷がぱっくり開いただけだ。まあ、化膿したら死ぬかもな」
 水にタオルを浸して絞りながら、男はさらりと言った。まず両腕を拭いてから、首元を、そして傷の周りを拭き始めた。水に溶けて、あっという間にタオルが血の色に染まっていく。サンジは見ていられなくなって、立ち上がった。
「もっと、タオル、持ってくる!」
 返事を待たずに、サンジは納屋を飛び出した。
(怪物だ)
 サンジは走りながら思った。
(映画の怪物だ)
 映画の怪物は、全身に繋ぎ合わされた縫合の跡があった。あの男の傷も、似ているように思った。
(死にそうなのに、生きてた)
 果たして、あの男は本当に生きているのだろうか。本当は、死んでいるのだろうか。死んで、甦った怪物なのかもしれない。
(怪物だったら、どうしよう)
 怖い、とサンジは震えた。
 怖くて怖くて仕方がないのに、サンジの足は止まることなく、自然とタオルを取りに行き、そしてゼフの部屋から、もう着なくなった服を回収していた。



 男の回復ぶりは、サンジが驚くほどだった。翌日には血色も良くなり、一日中呑気に寝ていた。最初はサンジを警戒していたくせに、足音でわかるのか、納屋の扉を開けても隠れていることはなくなった。
 ゼフは村の大人たちと一緒に帰ってきた。サンジは部屋に追いたてられたが、聞き耳を立てていた。
 会話の内容はよく聞き取れなかったけれど、切れ切れに、「脱走」「小屋の痕跡」「まだこの近辺に」などという単語が聞こえた。
 あの小屋に潜んでいたことはばれてしまったようだった。サンジの掌に汗が滲んだ。
 しかし、まさか探している男が、この家の敷地内にいるとは想像できないだろう。自然と、サンジは息を止めて、話を聞いていた。まるで、自分が隠れているかのようだった。
 男たちが帰ると、サンジはキッチンへと歩いていった。ゼフは、腕を組んでテーブルの上を睨んでいた。
「ジジイ」
 声を掛けると、ゼフはサンジを見下ろした。じっと見つめられると、まるでサンジがしでかしたことが全てばれているような気がした。
「早く寝ろ」
「……うん」
 ゼフの声には疲れがたっぷりと含まれていた。



 その次の日も、サンジは外出を禁止された。他の家の子供も同じだという。
 ゼフが仕事に出て行った頃を見計らって、サンジは納屋に行く。
 男はまだ眠っていた。サンジが近寄っていっても目を覚まそうとはしない。最初の警戒ぶりとは偉い違いだった。
 藁を踏みしめて顔を覗き込む。男の寝顔は起きているときよりもずっと若く見えた。眠っている時は眉が寄せられていないからかもしれない。
 小屋の中は寒いのに、男はサンジが持ち込んだ毛布をかけていなかった。血の染みがついたままの毛布を手繰り寄せて、サンジは胸元にかけてやった。
(これから、どうすんだろう)
 この男は、一体何者なんだろう。どうして、村の大人から追われているんだろう。子供たちを家に閉じ込めておかなければならないほど、危険な人間なのだろうか。
(人に、嫌われているんだ)
 映画の怪物みたいに。
 じっと考え事をして男の寝顔を眺めていると、サンジも眠くなってきた。うとうとと瞼が落ちてきて、頭ががくりと落ちる。どさりと藁に蹲って、サンジはいつの間にか寝入っていた。



 短い時間で夢を見た。
 サンジは「怪物」になっていた。大好きな人から作られて、しかし異常な見かけをしているので、人には嫌われた。
 ゼフもサンジを冷たく見ていた。
 おれは、人が大好きなのに。
 人に自分を好きになって欲しくて近づいても、石を投げられた。酷い言葉を投げられた。怪物と連呼された。悲鳴を上げて、逃げられた。
(どうして、どうして!)
 嫌わないで、と泣く夜が続く。一人の夜が一日一日と増えるたびに、人間への憎しみが積もっていった。
 しんしんと、音もなく積もる雪のように。憎しみは溶けずに溜まっていく。
(おれを、ひとりにしないで)
 寂しさに泣きながら、サンジは人を憎む。
 サンジは怪物だった。憎しみを得た怪物になってしまったから、人間へ牙を向いた。
 人間を憎しみながら手をかけて、それでも寂しさに泣いて、絶望した。
(ひとりは嫌だ)
 ひとりだったら、死んでいるのと一緒だ。
(誰でもいいから)
 差し伸べられる手を待ちながら、サンジは人間を殺した。



「おい、起きろ」
 目が覚めると、体中の血がどくどくと鳴っているようだった。びっしょりと汗をかいていた。
「魘されてたぞ、お前」
 額に男の手が当てられた。温かかった。
「嫌な夢、見た」
「どうせ夢だろ。すぐ忘れる」
 サンジの動揺は全く伝わることなく、男はあっさりと手を引っ込めた。
「あーくそ、眠ィ」
 呑気に欠伸をしている男を見て、サンジはむっとした。
「追われてるってのに、緊張感ってもんとかないのかよ!」
「んなもん、見つかってから持てばいいだろ」
 男は胡坐をかいて、頭をぼりぼりとかいた。
「……あんた、一体何をしたんだ?」
 サンジは埋もれていた藁から這い上がって、男の前に座った。
「大人たちが、あんたを必死で探してんだ。子供は家から出してもらえねェし。それって、すごく『危険』だからなんだろ? あんたは『危険』なのか?」
「まあ、そうなんじゃねェのか」
 男は再び欠伸をした。全くサンジの質問に真剣に答えるつもりがないようで、さすがにむっとした。
「少しくらい教えろよ!」
「ガキは知らねェ方がいい」
 一転して、男は低い声を出した。サンジを見下ろして、最初に会ったときと同じくらいの怖い顔をした。
「ガキガキって、バカにしやがって!」
「バカにしてんじゃねェよ。ガキってのはそういうもんだ。知りたいなら自分で掴め。他人に聞くな。ガキだと言われたくねェんならな」
 サンジはむすっとした。男の言うことに少し「そうかも」と思ってしまったからだった。
「わかった。お前には何にも聞かねェよ」
「おお、そうしてくれ」
 ひらひらと鬱陶しそうに手を振って、男は藁の中に沈んだ。
「……まじかよ」
 寸前に感じていた怒りもどこかへいってしまった。
 今まで喋っていたというのに、男は寝息を立てていた。



 男の血色が良くなっていくのと反比例するように、ゼフの機嫌が悪くなっていくようだった。
 もしも、サンジが男をかくまっていることがわかったら、ゼフはどう思うだろうか。まさか身内が自分を裏切っているとは思っていないだろう。
 朝食を食べながら、サンジは胃が痛んだ。罪悪感、というのはこういう気持ちなのかもしれない。
 胃の底がぎりぎりと締め付けられて、ゼフの顔をしっかり見ることができない。
(ごめん、ジジイ)
 それでも、ゼフを裏切ることになっても、どうしてかサンジは男のことを教える気にはなれなかった。
 ゼフは今日も家の外には出るなと言って、外出していった。
 さすがにすぐに食料を持っていく気にはなれなくて、サンジは自室に戻った。男をかくまってから、自分の部屋に居る時間が減った。窓を開け放つと、冬のきりりとした空気が入ってきた。寒さに目が染みた。
「あら、サンジ。おはよう」
 窓の外から、ロビンの声がした。隣の家の庭で、ロビンが洗濯物を干していた。
「おはよう、ロビンちゃん! 今日も綺麗だね!」
「ありがとう」
 ロビンは微笑んだ。
「家から出られなくて、退屈しているのじゃない?」
「……う、うん」
 退屈なんて、ここ数日は感じていなかった。
「でも、もう少しの辛抱よ。きっとあと少しで外に出られるようになるわ」
 サンジは目を見開いた。ロビンの断定するような口調が気になった。
(もしかして、ほんとはもう見つかってるとか?)
 サンジは必死で動揺を押しとどめた。ロビンから見えない窓の内側で、手の震えを押しとどめた。
(震えるな。おれはガキなんかじゃない。ちゃんと調べるんだ)
 サンジは深呼吸をした。
「ロビンちゃん」
「なに?」
「ロビンちゃんは、逃げてる男が何者なのか、知ってるんだよね。大人たちはまだ見つけてないんでしょ?」
「あら、どうして知っているの?」
 ロビンは僅かに眉を顰めた。
「ジジイと大人が、うちで話してたから」
「聞いてしまったのね。いけない子」
 そう言いながらも、ロビンの声は優しかった。
「そうね。まだ見つかっていないみたい。何があるかわからないから、子供はまだ外で遊ぶのは危険よ」
「人を、傷つける男なの?」
 確かに怖いけれど、サンジには、あの男はそういう人間には見えなかった。それよりも、あの男の傷の方が酷い。
「それがわからないから、警戒しているのよ」
「ひどいよ!」
 サンジは思わず大きな声を出してしまった。
「サンジ?」
 ロビンがこちらに近寄ってくる。柵に手をついて、サンジを見ている。
「人を傷つけてもいないのに、危険だって決め付けるのは、ひどい! そんなんだから!」
 人間がそんなんだから、怪物は「怪物」になってしまう。
「ひどい」
 サンジは泣きたくなってきた。
「サンジ、あなた、もしかして」
 ロビンは柵をひらりと飛び越えて、窓に近づいてきた。
「ロビンちゃん」
「あなた、逃げている男を知っているのね。どこにいるかも、知っているのではない?」
 ロビンは痛ましそうにサンジを見上げていた。隣に引っ越してきてから、今まで。彼女のそんな顔を見たことがなくて、サンジは瞬きをした。質問の意味がわかったのは、その後だった。
「ロビンちゃん、おれ」
「案内してくれるかしら?」
 ロビンはなぜか寂しそうに笑った。
「大丈夫、大人たちには言わないわ」
 ロビンの瞳は黒々として見えた。サンジは思わず頷いていた。ロビンなら大丈夫だと、そう思えた。



 ロビンを伴って納屋の扉を開けると、男はいなかった。藁の隅かと思っていると、ロビンが小さく笑った。
「……あら、随分な歓待ね」
「ロ、ロビンちゃん!」
 男がロビンの首元にナイフを突きつけていた。男の目は初めて会ったときのように冷たかった。
「お前か」
 しかし、男はすっとナイフを引っ込めた。
「ひどいことするわ。少し切れてしまったじゃない」
 ロビンは首元に手を当てた。指先には赤い血が滲んでいた。
「ロビンちゃん! 大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
 痛みはないのか、ロビンはにこりと笑った。そして、男へと視線を移す。
「まさか、こんな近くにいるとは、私も思わなかったわ」
「てめえ。なんでこの村にいやがる」
「あら、ご挨拶ね。あなたにとっては幸運なのではない?」
「幸運なんだか、運の尽きなんだか」
 ふん、と鼻で笑って、男は藁の塊の方へ歩いていった。サンジは慌てて、納屋の扉を閉めた。
「過ぎるほどの幸運だと思うわ。あなたはやっぱり強運の持ち主ね。この子に拾われたこともそう」
「拾われたって言うな」
「事実でしょ?」
「……拾われてやったんだ」
 ロビンは男の方へ歩いていった。サンジはどうしてか戸口から動けない。いきなり、自分が部外者のように思えた。
(あの二人は、知り合いだったんだ)
 ロビンと話している男は、別人に見えた。
(そうか、ひとりじゃなかったんだな)
 たった一人きりではなかったのだ。サンジが心配する必要などなかったのだ。
 喜ぶべきことなのに、どうしてかサンジは少しも嬉しくなかった。
「どうしたの?」
 黙ってしまったサンジを、いつの間にかロビンが見ていた。
「ううん、何でもない」
「そう?」
 ロビンは首を傾けてから、サンジの目の前にしゃがみ込んだ。
「あのね、あなたにお願いがあるの。私たちは、明日この村を出て行くわ。もちろん、あなたに迷惑がかからないように、こっそり出て行くから、心配しなくていいのよ」
「もう、傷は大丈夫なのか?」
 ロビンから男へ視線を移すと、彼は頷いた。
「問題ねェ」
「本当は問題があるのだけどね。あなた、腹部に全然力が入ってないじゃない」
「うるせェな」
「とにかく、国境から離れた場所に行って、治療しましょう」
「必要ねェ」
「上からの命令でも?」
 男はロビンをきつくにらみつけた。
「……わかった」
 大人しく言うことを聞いたので、サンジは驚いてしまった。
「ロビンちゃんは、なにものなの?」
 ある日ふらりとこの村にやってきたときから、確かに彼女は他の人間とは違う空気を纏っていた。それでもサンジは、他の大人が言うように「得体の知れない女」だとは思っていなかった。そういう風に勝手に思うのは失礼だとも思っていた。ロビンはロビンで、美人で優しいお隣さんで十分じゃないかと思っていた。
 しかし今、サンジはロビンに対して初めて得体の知れなさを感じてしまった。納屋の暗がりの中で微笑んでいるロビンは、男と同じくらい、サンジにはわからない世界の匂いをさせているのだった。
「ごめんなさい」
 ロビンは、そんなサンジの気持ちを感じ取ったのかもしれない。ごめんなさい、と謝った。
「ううん」
 サンジは慌てて首を振った。女性を悲しませてはいけない、と反射的に思う。
「いいんだ。女性は、ミステリアスな方がすてきなんだ」
「何言ってんだクソガキ」
 男が呆れたように言った。
「うるさい緑苔!」
「苔だあ?」
「苔みてェな頭してっからだ!」
「いい度胸だクソガキ」
 男といつものように言い争いを始めると、ロビンは楽しそうに笑った。その笑顔が見られるのも最後かもしれない、と思うと、サンジは無性に切なくなった。



 出立は明日、とロビンは言った。いつ行くのか、どうやってこの村を抜け出すのか、サンジは聞かなかった。聞いてしまったら、それを見届けたくなってしまう。しかし、二人が去っていく姿を見送るのは寂しい。それだったら、いつの間にかいなくなっている方がいい。子供心に、そんなことを思っていた。
 その夜は、寝付くことが出来なかった。  ベッドの中に入っても、納屋にいる男のことが気になって仕方がなかった。
 それに、ゼフが家を出て行ったまま、帰ってこなかった。あの男のことを捜しているのだろう。村はしんと静まり返っているのに、時折大人たちの声が風に乗って聞こえてきた。
 サンジはベッドから抜け出して、キッチンへ向った。眠れないので、昼間作ったパン生地を焼こうと思い立った。
(本当は、明日焼いて、食べさせてやるはずだったけど)
 ゼフが居ない時に、オーブンに火を入れてはいけない。そんな決まりごとも、サンジの行動を制限することはできなかった。薪を入れて、火を灯した。自分が酷く悪い人間になったような気がした。
 暗所で発酵させておいた生地を軽く練って、千切って、丸める。天板に載せて、温まったオーブンに入れた。火の熱さが頬をじりじりと焼く。
 椅子をオーブンの前に持ってきて、サンジはじっとパンが膨らんでいく様子を見ていた。
 やがていい匂いがして、パンが焼けても、ゼフは帰ってこなかった。
 男を心配しているのか、ゼフを心配しているのかわからなくなってきたころ、外で声が聞こえた。しかも複数で、言い争っているような音がする。
 玄関に駆け寄ってドアを開けると、声は納屋の方から聞こえてきた。
(まさか)
 サンジはそちらに駆け寄っていった。僅かな月明かりで、大人が数人固まっているのが見える。中にはゼフの姿もあった。
「ジジイ!」
「チビナス、なんで出てきた。戻って寝ろ!」
「騒がしくて寝られねェよ! なんかあったのか!」
 サンジの目は、納屋の入り口へ自然と向いていた。扉は開いているが、暗くて中は見えなかった。まるで闇がそのままぎっしりと詰まっているように、暗かった。
「なんでもねェ。いいからさっさと家の中に入れ」
「……探してる奴、見つかったのか?」
 ゼフの服を掴むと、彼は眉を顰めた。
「なんで知ってやがる」
「毎日家ん中で喋ってんだ。おれにだってわかる!」
「いいから、家に戻れ」
「ジジイ」
「戻ってろ!」
 本気で怒鳴られて、サンジはゼフの服から手を離した。
「ゼフさん! やっぱり逃げられたみてえだ。誰もいねえよ」
「痕跡はあったのか」
「あった。藁に血が付いてた」
「納屋から光が見えたってのはついさっきなのに……」
「まだ遠くには行ってないはずだ。探せ!」
 大人たちはばたばたと忙しない。サンジは突っ立ったまま、大人たちが庭から出て行くのを見ていた。ゼフが最後に、戻れと声を荒げていたが、それすらも遠く聞こえた。
(まだ、捕まってない)
 大人たちの声が遠くなってから、サンジは踵を返した。家の中に戻ってから、火の落ちたオーブンをあける。焼きたてのパンを麻の袋に適当に詰めて、引き出しから鍵を取り出してから、家を出た。周りに誰もいないことを確認して、柵を越えて隣の敷地に入った。
 ロビンの家には、灯りがついていない。
 それでも、サンジはぐるりと家の周囲を回って、裏口の扉を叩いた。
「……ロビンちゃん、いる?」
 トントン、ともう一度叩く。
「ロビンちゃん」
 すると、扉の奥で何かが動いた気配があった。
「ロビンちゃん」
 小さく裏口が開いて、ロビンが顔を覗かせた。
「サンジ、あなた、こんなところまで」
「入れて、ロビンちゃん」
 半ば無理やりに、サンジは扉をこじ開けて中に入った。
「ジジイたちが探してる。早くここを出て行かないと、捕まっちまうよ」
「ええ、ごめんなさいね。彼がしくじってしまって」
「おれかよ」
「あなたのせいでしょう? 全く、どうして蝋燭を灯したりしたの」
 ロビンの背後から、男の声も聞こえた。
「うっせェな、探し物してたんだよ」
「見つかったの?」
「いいや」
「それであなたまで捕まってしまったら、間抜けね」
「いちいち深追いすんな」
「ごめんなさい。性分なの」
 ロビンはそれでも、楽しそうに笑った。
「さて、しかしどうしましょう。どうやって逃げようかしら」
 ロビンちゃん、とサンジは呼びかけた。
「おれの家の裏にある林から逃げるといいよ。あそこは、うちの敷地だから、普段は人が通らないし。今日はどうかわかんないけど、林を抜けたら村の外に出られるんだ」
「ありがとう。でも、その後が問題なのよ」
「これ、使って」
 サンジはロビンに、握っていた鍵を押し付けた。
「ジジイのトラックのキーなんだ。林の向こうにいつも停めてある。普段は使わないから、ロビンちゃんにプレゼントするよ」
 一気に言って、サンジは肩にしょっていた袋を、今度は男に投げるようにして渡した。
「これ、食え。おれが焼いたんだ」
 男はじっと、麻の袋とサンジを交互に見つめた。サンジはその目を見返すことが出来なかった。
(これで、お別れだ)
 どうしてなのだろう。本当に不思議でたまらなかった。明らかに不審者で、何者かわからないのに、もう会えないのだと思うと、胸が痛かった。両親が死んでしまった次くらいに、悲しい。
「ありがとう」
 ロビンはサンジの頭を柔らかく撫でてくれた。
「行きましょう」
 それから、男の肩を叩く。男は頷いた。そのまま出て行くかと思われたが、男はサンジの目の前にしゃがみ込んだ。目線が同じになる。
 男は、自分の左耳を探った。つられて見ると、男の耳にあったピアスがひとつはずされた。最初は三つあったのに、男の耳に残ったのは一つだけだった。さっき言っていた「探し物」、というのはこのピアスだったのかもしれない。サンジがぼんやりと見ていると、男はサンジの右手を開いて、ピアスを握らせた。
「お前にやる」
「え、なんで……」
 大事な物なのではないのだろうか。握らされた、鈍く光るピアスを見てから、サンジは男の目を見た。
 男は真剣な目をしてサンジを見返していた。冷たい目ではない。しかし、優しい目でもない。何を考えているのかわからない。
「もしお前が」
 男は言った。
「もしお前が、今後助けが欲しいときがあったら、おれを探せ。絶対に、何があっても助けてやる」
 サンジは口を開いて、けれど何も言えずに閉じた。
「おれの名前は、ゾロだ」
 もう一度、ピアスを握った手の上から、強く握られた。
「ロロノア・ゾロだ。覚えておけ」
「……ゾロ」
 サンジが呼ぶと、ゾロはにやりと笑った。初めて向けられた笑顔だった。
「じゃあな、クソガキ」
 最後に、わしゃわしゃと、頭を乱暴にかき回された。
 それを直すことも忘れて、サンジはロビンとゾロが戸口を出て行くのを見守った。
 出て行ってからしばらくして、サンジはロビンの家を出た。きっと、またしばらく、空き家になるだろう家を出ると、外はしんと静まり返っていた。ロビンとゾロの姿は見えなかった。
「ゾロ、ロビンちゃん」
 まるで、最初からいなかったような気がして、サンジは右手をきつく握った。
 その掌の中には、固いピアスが残されていた。



 春に、なった。
 サンジはしばらくぶりに、列車を見に行こうと思い立った。それまでは村の外に出ようという気持ちすら起きなかったので、自分でも驚いた。
 ルフィとウソップの遊びの誘いを断って、サンジは村の外に出た。
 ゾロとロビンが出て行ってからしばらくは、村の大人たちがピリピリしていたが、最近では元の穏やかさを取り戻していたので、サンジも簡単に外に出ることが出来た。
 ざああ、と草原に風が吹く。ゾロを見つけた時とは見える景色がすっかり変わっていた。
 芽生えたばかりの緑色が広がって、空は薄く綺麗な水色をしていた。雲はひとつもない。
 サンジは草を踏みながら線路へと近づいた。
 まだ列車は来ない。
 レールに近寄って、二つの直線の間に蹲った。片側のレールに耳を寄せる。春の太陽に照らされているので、レールは暖かかった。耳鳴りもしない。
 しばらく目を閉じてレールに耳を当てていると、遠くから列車が近づいてくる音がした。
 サンジは目を開くと、レールから飛び降りた。
 ごおお、と轟音を立てて、列車が通り過ぎていく。風を浴びて、サンジは目を閉じた。春でも冬でも、通り過ぎる時の風は目に痛い。
 音が完全に消えてから、サンジはそっと目を開く。
 レールの向こうには、ただ草原が広がっていた。草原と、レールと、サンジだけがいる。他には誰もいない。
 ざあ、と風が強く吹く。サンジの髪と草原を揺らしていった。
(生きてんのかな)
 考えまいとしていたことが、頭の中で点滅した。
(ロビンちゃんも、元気にしてるかな)
 サンジはごそごそと、ポケットに入れてあったピアスを取り出した。それは二つ、サンジの掌の上にある。
 あの後、納屋で藁を片付けていた時に、藁に絡まっているのを見つけたのだった。
 三つもつけていたのに、サンジの手元に多く残ってしまった。
「ゾロ」
 ピアスを握り締めて、サンジは呟いた。怪物だと思っていた男の名前を呼ぶと、妙な気分になった。
 もう一度、会うことがあるのだろうか、と思った。会えるような気もしたし、逆に一生会えないような気もした。自分でも、どちらを望んでいるのかわからなかった。ゾロのことについて考えるとき、サンジはわからないことの方が多い。
 ざああ、と背後から風が吹き抜けていく。
 サンジは乱れた髪を押さえて、ピアスをポケットにしまった。
 レールに背を向けて、村の入り口へと足を向けた。
 越えて良いと言われるまで、もうサンジはレールの向こうへは行かない。
 春の風が真正面から吹き付けてくる。


 十三歳の春が来ようとしていた。


















(言い訳という名の解説、という名のあとがき)
『ミ/ツ/バ/チのささやき』という映画のパロでした。
お詫びしておきますが、元ネタはこんなお話ではありません。もっと素敵です。すみません(土下座)。
子役の女の子が可愛くて可愛くて、何度も見返したくなってしまいます。
「あの可愛さに張れるのはチビナスしかいなくね?」と思い立ったのが運の尽き(運かよ)。
もう妄想が止まりませんでした。後悔はしていない。しかし、映画ファンの方がいらっしゃったらごめんなさい。
設定やらなにやら、ぼかしまくってあるのは、チビナス視点だからです。面倒だったわけじゃないデスヨー。
ゾロとロビンが何者なのか、とかまた書けたらいいなあ。
パラレルは好き勝手できるから好きです。
原作はイメージを壊してしまうのが怖くて、二の足を踏んでしまいがちです。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
そして、バレンタインにまるきり空気を読まないネタですみませんでした。





2010/02/14

Text / Index


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