イノセントワールド





 廊下を、長い廊下を、音を立てて走った。いつもだったら、すぐに叱責が飛んでくるはずの行動だ。それなのに、誰からも声がかからない。
 屋敷の中はしんと静まり返っていた。
 庭から響いてくる蝉の声と、自分の荒い呼吸音しか聞こえなかった。蝉の声は、逆に静けさを助長する。まるで、世界に自分ひとりになってしまったかのようだった。蝉はそれをあざ笑ってでもいるみたいに、鳴いている。
 うるさい、うるさい、うるさい!
 内心で蝉を詰ったところで、最奥の部屋についた。
「くいなっ!」
 障子を開け放つと、薄暗い室内で、師匠の背中が見えた。彼らしくなく、その背中は少し丸まっている。いつも真っ直ぐに伸びていたはずの背が。ゾロは障子を開けたままの格好で固まった。
「ゾロ」
 振り返った師匠の向こうに、布団が敷かれているのが見える。
 廊下を走ってきた、今までの勢いは完全に失われて、ゾロはその場から中に踏み込むことが出来なかった。
 蝉の音までが遠くから聞こえる。
 ――くいなが、寝ていた。
 横たわっている。仰向けになって。両手は胸の下で組まれている。障子の木枠を掴んでいた手が、震えだした。
「ゾロ、来てくれたんだね」
 師匠の声は静かだった。いつもどおりの静けさのように思えたが、常にあった芯のようなものが抜かれているようだった。
 くいな、とゾロは声にならない声で呟いた。
 くいなの体はそこにあった。この畳の縁を乗り越えて、三歩近寄ればすぐに触れられる位置にある。
 しかし、彼女はもっとずっと、ゾロが手を伸ばしても届かないところに行ってしまったのだ、と瞬時にわかった。
 そこにあるのは、くいなの体だけだった。魂が、ない。
 ――くいな。
 ゾロは、ぎりっと歯をかみ合わせた。震えて歯の根が合わない。
 しっかりしろ、と自分を叱咤して、畳の中に足を踏み出した。三歩の距離は非常に長かった。くいなの枕元に膝をつく。人の気配がしたら、すぐに目を覚ます少女だった。寝込みを襲っても勝てる相手ではなかった。その少女が、無防備にゾロの前に横たわっている。
「くいな」
 お前、そんな油断してていいのかよ。
 ゾロは手を伸ばした。
 大剣豪になるんなら、人前で呑気に寝てんじゃねェよ。
 触れれば、くいなは起きるかもしれないと思った。起きて、瞬時にゾロに飛び掛って、面を打つ。誇らしげに笑って。
『まだまだね、ゾロ。やっぱり、大剣豪になるのは私よ!』
 と、笑う。
 笑うはずの少女は、ひどく冷たかった。夏の暑さの中で、異常なくらいの冷たさだった。
 そう。まるで、死んでいるかのような。
 ゾロは手を引っ込めた。電流が走ったみたいに、手の先がちりちりと痛んだ。
「ゾロ、人の命はなんて儚いんだろう」
 師匠の声を聞くことが耐えられなくて、ゾロは踵を返した。
 師匠は追ってこなかった。



 くいなの死をゾロに伝えたのは、母親だった。最初はつまらない冗談だと聞き流していたが、母親の目を見て、ゾロは背中に寒気が走った。
 半信半疑のまま駆けてきた結果がこれだった。今でも信じられない。何かに騙されているのだと、ゾロはまだ疑っていた。
 家に戻って、庭に立ちすくんでいると、母に呼ばれた。
 いつの間に用意していたのか、母はゾロに喪服を着せた。これを仕立てている姿を、ゾロは見たことがなかった。初めて袖を通す黒い着物は、今のゾロの体にぴったりだった。いつ葬送があってもいいように、常に仕立て直しているのだ、とゾロですらわかった。そんな初めて知った母の一面も、ただゾロから現実感を遠のけただけだった。そして、同じ格好をした大人たちも。何度か見た葬列も。泣き崩れる親戚も。道場の仲間たちの号泣も。この青い空でさえも。
 全てがゾロを日常から遠ざけていく。
 夢の中に紛れ込んでしまったかのようだった。


 ゾロは一言も口を利かず、黙って葬列に参加していた。誰に話し掛けられても、返事をしないで前だけを向いていた。
 掌をずっと握りしめていたので、汗が溜まる。
 黒い服は暑い。
 こんな服を、おれに着せやがって。
 ふつふつと沸いて来るのは、怒りだけだった。
 ずっと前だけを見ていたが、火葬の段階になって、ゾロは目を逸らした。師匠の堪え切れない嗚咽がゾロの耳の中に残る。永遠に聞こえてくるような気がした。
 師匠に釣られて、さざなみのように、大勢の泣き声がゾロに押し寄せる。それから逃れるために、突き抜けるような青い空と白い雲が動くのを見ていた。
 横から、母がゾロに何か言ったようだったが、理解できなかった。何を言ったのかもわからない。
 空は深く青い。
 入道雲が、ゾロの前に立ちはだかるかのように聳えている。


 葬儀から帰った後、ゾロは庭の真ん中に立っていた。家の中に入る気が起きなかった。よく二人で剣を打ち合わせた庭が、やけに広く感じた。
 ここでも、蝉の声がうるさく響いている。
 ずっと立ち尽くしているゾロを見かねたのか、母が半ば引きずるように、ゾロを家の中に連れ込んだ。縁側に座らされて、ぼうっとしていると、井戸水できんきんに冷やされた布巾を、額に当てられた。
 ゾロは反射的に、その冷たさを振り払った。
「ゾロ」
 たしなめるのではなく、ただ母はゾロに呼びかけた。
「しっかりしなさい」
「……別に」
 目を逸らして、ゾロは再び庭を見下ろした。
 風で草木が揺れている。蝉の声が庭中に降り注いでいる。日陰に入ったせいで、額から汗が流れた。頬をたどって、ぽたりと落ちる音までが、聞こえた気がした。蝉の声でうるさいというのに。自分の周りだけ、静寂の膜が張られているかのようだった。
「ゾロ、泣きなさい」
 母が言った言葉が、少し遅れて届いた。驚いて、思わず母を見上げた。
 いつも、男は滅多なことが無い限り泣いてはいけない、と叱っていたのは、他でもない、この母なのだ。
 ゾロの疑問はすぐに伝わったのだろう、母は悲しげな笑みを浮かべた。
 その笑みを見て、ゾロは今がまさに「滅多なこと」であるのだと悟った。
 今度は、背中にじわりと汗が浮かんだ。冷たい汗だった。
「……母さん」
「泣きなさい」
 そっと抱き寄せられて、ゾロは母の胸の中で目を見開いた。温かい感触の向こうに、かすかに鼓動が聞こえる。
 蝉の泣き声が耳に届く。悲鳴のようだった。
 ゾロはずるずると母の緩い拘束から逃れた。
「ゾロ」
「……ちょっと、出てくる」
「ゾロ!」
 家を飛び出して、ゾロは庭を突っ切っていった。
 裏門を抜けて、小道を横切ると、目の前にはすすき野原が広がっている。まだ青々としている草の中に、ゾロは飛び込んだ。
 丈の長くなった茎を掻き分けるのももどかしく、ゾロは強引に藪の中を進む。みずみずしい茎と葉の先が、剥き出しの手足を掠り、顔を打ち、頬を引っ掻いていく。その痛みも、ゾロには鈍く感じられた。
 ――目から溢れた涙だけが、熱い。
 泣きなさい、と言われたことが、ゾロから最後の抵抗を奪った。根こそぎ奪っていった。死を信じられなかったゾロに、一瞬で現実を突き立てた。この、現実を。
「くいなっ!」
 草の中から、ぽっかりと覗く青空を仰いで、叫んだ。
 ――くいなは死んだのだ。
「うああああああああああっ!!」
 天を仰いで、ゾロは悲鳴のような叫び声を上げた。
 驚いたように鳥が飛んで行ったが、ゾロには見えていない。
「……あああああああっ……!!」
 喘ぐように呼吸をして、叫び続けた。
 叫んで叫んで叫び続けて、やがて力がふっと抜けて、ゾロは地面に膝を付いた。
 湿った土にがりっと爪を立てる。 土も暖かかった。母も、土も、草も、降り注ぐ日差しも、そして自分の体も、熱を持つ全てを厭わしく感じた。
 くいなだけが、冷たかった。この夏の盛りの季節で、彼女だけが。
「うわああああああああああっ!!」
 涙が土の上に落ちる。
 呼吸が止まりそうになるくらい、苦しかった。
 服の上から胸を、喉を掻きむしる。土の上に倒れこんだ。
 助けて、とゾロは土まみれになった手を、空に伸ばした。
 ――どうしてかは、わからない。
 その時、手を伸ばした先に求めたのは、泣きなさいと言った母でも、父でも、師匠でもなかった。
 この村からは一番遠い存在の。
「……サンジ」
 叫びすぎて潰れた喉から漏れた言葉は、ほとんど音になっていなかった。
 ただ、今ここに、ゾロの側に、いて欲しかった。



 暗闇の中でも、師匠の家だけが、弔いの火に照らされて明るかった。
 無断で道場に侵入しても、誰もゾロを咎めなかった。土で汚れ果てた喪服を着たゾロは、異常に見えたのだろう。
 やってきた師匠は、ゾロを見ても何も言わなかった。
 道場の真ん中で、ゾロは深く頭を下げた。
「師匠、くいなの剣をおれに下さい」
「ゾロ」
「強くなる。おれは強くなって、大剣豪になる」
 ゾロは面を上げた。まっすぐに師匠を見つめて。
「ずっと競い合うと、どちらかが大剣豪になると、約束したんだ」
 師匠はしばらく身じろぎもしなかった。
 長い長い時間の後、ただ一つため息を漏らした。
「ゾロ」
 そして、かすかに笑った気配がした。
「あの子が、君を一足飛びで大人にしてしまったんだね」
 いいでしょう、と師匠は言った。
「あの子の剣を、君にあげましょう」
 その日から、くいなの剣は、ゾロのものになった。




 旅立ちは二年後と決めた。
 くいなが生を止めた年齢、そして、サンジが国を出た年齢と、故意に重ねた。自分の決意を固めるために。
 出航は、十七歳でと決めた。




「行くのかい」
 見送りは師匠だけだった。というより、ゾロが見送りを断らなかったのが師匠だけだった。
 船に乗り込む直前にやってきて、買い物に出る子供を見送るように、手を振った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
 師匠らしい見送りに苦笑してから、ゾロは深く深く、頭を下げた。
 腰に佩いた白い剣をぎゅっと掴む。ゾロが頭を下げている間、師匠はこの剣を見送っているだろう。
 十分に時間をかけてから、ゾロは頭を上げた。
「風邪を引かないように、気をつけて下さい」
「はい」
 神妙なのはそこまでにして、ゾロはにやりと笑って、剣を鞘ごと掲げた。
「先生! 大剣豪になって、帰ってくるからな!」
「ええ。楽しみにしてますよ」
 悲しみは両目にたたえたまま、けれど乗り越えてきた力強さも込めて、師匠はゾロに笑いかけた。
 ゾロはもう振り返らなかった。定期船に乗り込むと、すぐに船は出航した。陸を振り返らずに、まっすぐに、水平線を見定める。
 この海の向こうにゾロが求めるのは二つだ。

 くいなとの約束と、金髪のコック。

 ゾロは目を眇めて、世界に挑戦するかのように、笑った。
 誰も見てはいないはずなのに、くいながどこかで見ているような気がした。いいや、きっと、確かに見ている。ゾロの不甲斐なさも、弱さも、そして強くなっていく様も、何もかもを。
 さあ、行きなさい! と背中を押された気がした。

















【イノセント : 1 無実の。潔白な。 2 純潔な。また、無邪気な】
ここでは、「純潔な」のイメージで。


2010/08/10

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