ほうれん草の味噌汁





 ジジイの都合で引っ越して来た町は、予想以上にのどかで、繁華街なんかさっぱりなくて、あまつさえ自宅から一番近いコンビニは歩いて十分以上もかかるというとんでもないところで、けれど空気と水のおいしいところだった。
 都会の空気と水で育った身としては、澄んだ空気と、蛇口から直接飲むことができる水道水には、やっぱり感動した。東京にいた時は、どうしてもカルキ臭さが気になって、お茶を飲むための湯ですらミネラルウォーターを使って沸かしていたくらいだ。なんだここ、天国か、と味噌汁の湯を沸かすたびに思う。
 蛇口からひねった水は、とても冷たい。そして、コップに入れても細かい泡で白く、なかなか透明にならないくらいだ。最初は驚いてジジイに聞いてしまったが、これは新鮮な証拠らしい。ほかにもいろいろ説明があった気がするが、完全に忘れた。
 ともかく、だ。田舎なんてとんでもねえ、と最初は抵抗したものの、自然の偉大さに感激した今となっては、万々歳だった。料理も前より美味くなった気がするし、文句はない。
 しかし、とサンジは味噌汁をかき混ぜながら、ひとつだけ気にかかっていることについて考える。
 ――あの緑はいったい何なんだろう。
 サンジは、新しい緑頭のクラスメイトのことが自然と頭に浮かんで、うんざりした。高校生活が始まったばかりだというのに、後ろの席で寝てばかりいるのだ。
 気になるのはそれだけじゃない。むしろ、もっと気にかかるというか、ムカつくことがある。
 信じられないことに、奴は昼食で毎日コンビニのパンを齧っているのだ。しかも、サンドイッチなどの微々たる野菜すら入っていないような、でかくて百円でとにかく腹に溜まればいい、というようなパンばかりを食べている。好きなのならしょうがないと思うけれども、奴はこれまたまずそうに眉を寄せて食べるのだ。あれじゃあ材料が浮かばれない、とサンジは苛々する。というか、食事をまずそうに取っているという時点で、サンジの中での評価はとっくの昔にマイナス値である。
 給食のころはよかった、とサンジはまだ一ヶ月にもならない昔を回顧する。人が何を食べているのを気にする必要がなかったからだ。給食の味には文句がふんだんにあったが、食べている人間へ悪意は向かない。まさか、また違うストレスがやってくるとは思わなかった。
 溜息をついたところで、味噌汁を必要以上にかき回してしまったことに気づいた。豆腐の角が少し崩れていて、サンジは盛大に舌打ちした。ゼフになんていわれるかわからない。あの緑頭め、マリモみたいな頭しやがって、と八つ当たりすることが決定となった。




 ゾロはいつも始業間際に入ってくる。しょっぱなからやる気のないやつだ、とサンジは思う。ちなみに、自分も始業時間五分前というアバウトさであるが、奴よりは前なのでしっかり棚に上げておく。
 今日もふわあ、とあくびをしながら、ゾロは教室に入ってきた。チャイムというバックミュージック付きだ。良い御身分ですこと、とサンジは鼻で笑った。
「んだよ」
 ちょうどサンジの目の前を通るところだったため、ゾロは不快そうに眉を顰めた。
「別に」
 ふん、とそっぽを向いて、サンジは黒板に向き直る。
「おいマユゲ」
「おれの名前はマユゲじゃねえ」
「うるせえなあ。一限は何だ?」
「ああ? てめえは時間割も見れねえ可哀想なやつなのか? 国語だバーカ」
「そうか、じゃあ」
 じゃあ、と言って、ゾロは机の上に突っ伏して寝はじめた。
「は? 来ていきなりそれかよ!」
 声を上げたところで、国語教師が入ってきた。きりーつ、れい。と日直の言葉に従って開始の挨拶をする。
 国語教師はゾロを見て困ったような顔をしたが、そのまま注意することはなかった。
 まただ、とサンジはそっとゾロを振り返った。ゾロは窓の方へ顔を向けて、完全に寝入っている。
 いかにもやる気がありません、という風なダメな生徒の癖に、ゾロはあまり叱られることがなかった。贔屓されるようなお家柄なのかと思ったが、そんな奴が菓子パンなんかで昼食を済ませるはずがない。
 じゃあもしかしてヤの付く人種? いやいや、それともただの問題児? なんだかこれが一番しっくりくる。でもそれじゃ見逃される理由には弱い。
 頭の中で疑問と予想と否定ばかりがぐるぐるとまわって、サンジは授業に集中できないのだった。
 一週間耐えたから、いいかな、とサンジは国語教師の朗読を聞きながら思った。




 昼休みを待って、サンジは緑頭を叩いた。それはもう渾身の力を込めて。
「……いってえっ!」
 しかし、痛めつけられたのは自分だった。サンジの声で、周囲にいたクラスメイトがぎょっと自分を振り返るのが見えた。
「なんだこの石頭!」
 ムカついて机を蹴ると、問題児はやっとのそりと起きあがった。
「ああ?」
 濁点が付いていそうな低い声で凄まれる。やっぱ、ヤのつく人種かも、とサンジは思った。
「なあ、お前って何様なの?」
「は?」
 起きぬけのせいか、ゾロはまだ覚醒していない。目を瞬かせてサンジを見上げてくる。視線を合わせるため、サンジは自席に後ろ向きに跨って座った。
「お前、一週間ずっと寝てんじゃん。平日はジョギングしてねえだろ、見かけねえし。早起きしてるわけじゃねえんだから、半分くらい起きてろ。先生に失礼だ」
「……は?」
「てめえ、目が覚めてねえな。眠りの国に足突っ込んだままか。おい、起きろ」
 もう一度足で机を蹴る。昔から蹴りの方が威力があったので、机はがしん、と大きな音を立てて揺れる。
「蹴んな!」
「お、目が覚めた?」
 ゾロは机から身を離して、がしがしを頭を掻いた。おっさんだ、おっさんがいる、とサンジは笑った。
「誰がおっさんだ」
「てめえだよ。いいから、明日からはちゃんと起きろよ。寝てばかりじゃ脳が溶けるぜ?」
「溶けるか、あほ」
「いいや、お前なら溶けそうだ。なんかバカそうだし」
「バカにバカって言われたくねえな」
「ああ? 誰がバカだ。誰が」
「てめえだよ、このぐるマユが」
「んだとォ!」
 せっかく穏やかに忠告してやろうと思ったのに。サンジは主義を曲げてゾロの頬を殴った。頭とは違って、少しは柔らかいおかげか、ちゃんと衝撃は相手に伝わって、緑頭は椅子から落ちた。
「あー、よく我慢したよな、おれ」
 正当防衛だ、と納得していると、学ランの襟を掴まれた。おお? と思う間もなくお返しをくらって、床に落ちる。ジジイの蹴りの次に痛い。
 それからは、思春期のお年頃なので、教室の片隅で大乱闘という娯楽を提供した。




「入学早々てめえらは何やってんだ、ああ?」
 と、こっちはいかにも問題教師、という風に凄んでくる。田舎のくせに物騒なヤツラが多いなあ、と思いながら、サンジはへらりと笑った。
「すいませーん、スモーカー先生。おれが先に手を出しました」
 正直に言った方が罪が軽いというのは経験上知っている。隣でゾロが自分を見てくるが、そちらは無視する。
 案の定、スモーカーは口にくわえた葉巻をぎりぎりと噛み締めた。今時葉巻だなんて、渋い趣味だと感心してしまう。
「次は校外でやれ、校外で。俺に迷惑をかけるんじゃねえ」
「先生、話わかるね。でも必然的に今後も校内でイラついてまた殴っちゃいそうなんだけど、おれ」
「耐えろ。男だろ」
「男だから手が出るんだって」
「男なら自制しろ」
「……へーい」
 スモーカーにじろりと睨まれて、サンジは首をすくめた。座っている簡易椅子がぎしりと鳴る。
「すみませんでした」
 隣でゾロが深く頭を下げたので、サンジは驚いた。あれほど不遜な態度を取っていたのに、深々と頭を下げる姿は堂に入っている。
「まあ、初回だから今回は不問にしてやる。……お前、ロロノア・ゾロだな」
「はい」
 ゾロは顔を上げた。
「俺は剣道部の顧問だ」
 スモーカーの言葉に、ゾロの表情が変わる。ありありと、しまった、という顔を浮かべている。そして、わずかに困っているような。
「野暮なことは言わねえ。二か月待ってやる」
「二か月?」
 ゾロは訝しげに問いかける。
「長いか? まあ、それくらいは必要だろう。何かあったらここに来い」
 ぽん、と緑の頭を軽くたたいて、スモーカーは職員室を出ていった。スモーカーの机の前に座らされていた身としては、逆なんじゃねえの? と思う。
 簡易椅子を片付けながら、サンジはゾロを振り返った。
「お前、剣道やってんの?」
 ゾロはサンジに視線を合わせることはなかった。じっと床を見つめてから、立ち上がる。椅子を片付けて、そのまま出て行ってしまった。
「なんだよオイ」
 鮮やかに無視されたな、おれ。
 サンジは首を傾げた。




 教室に戻ると、すでに大半のクラスメイトがいなくなっていた。まだ部活にも入っていない新入生は、教室に残らずにすぐに帰ってしまう。貴重な放課後をあのマリモのせいで無駄にしたなあ、とため息をつきながら席に着くと、目の前の席に誰かが腰かけてきた。
「お前、よくゾロにあんな口きけるなあ」
 感心したぜ、と続く妙な賞賛に、サンジは眉を寄せた。
「ああ? あのマリモとおれが口きいてるってェ? そりゃ幻だ」
「お前は二重人格かよ! ついさっきのことじゃねーか!」
 律儀に突っ込んでくるクラスメイトの顔を見上げると、彼は不思議に鼻が長かった。
「お前、面白い鼻してんな。コップで水飲むときとかどうしてんだ? 中に入んねえのか、それ」
「ああ、おれの鼻は柔軟でな、こうしてちょいと持ち上げられるんだぜ」
「うおー、すげえな!」
ぱちぱちと手を叩くと、長鼻のクラスメイトは得意げに背をそらした。効果音をつけるとすれば、「えっへん」という感じだ。
「じゃなくて!」
海老ぞりから復活した長鼻は、もう一度サンジへ顔を寄せてくる。鼻が長いせいで、先が付きそうになる。サンジは少し後ずさった。
「なんだよ」
「お前、ゾロが怖くねえの?」
「怖いかよ、あんな寝腐れマリモが。なんでおれが恐れなきゃなんねえの。なに、お前怖いの?」
「いや、おれはゾロとは中学が一緒だから、別に怖くはねえんだけどよ」
 少し言いにくそうに、鼻を掻きながら少年は言う。
「それ以外の奴らは、ゾロが怖いみたいだからよお。誰も近寄らないだろ?」
「そりゃ単に寝てばっかで会話にもならねえからじゃねえの?」
「いやいや、どうみても近寄り難いだろあれは〜」
「でもお前は別に怖くねえんだろ。じゃあいいじゃん。そのうち他の連中も慣れんだろ」
「お前、見かけに反して大雑把だなあ……」
 クラスメイトを無視して、サンジは鞄に教科書を詰めた。そろそろ、実家のレストランに行かなければならない時間だ。
「お前を見込んで頼みがある」
 さって帰るか、と鞄を背負った瞬間、クラスメイトが言った。
「ああ? なんだよ」
「ゾロに剣道部に入るように説得してくれ!」
「はあ? 何でおれが」
 そういえば、と先ほどのスモーカーの言葉を思い出した。顧問だの、二か月待つだの。それから、深く礼をした時の所作もついでに思い返す。確かに、あの流れは武道とか形式ばった運動をしている者特有の動きに見える。さっきは否定されたが、やっぱり剣道をやっていたらしい。
 へえ、とサンジは思った。
 寝てるだけのマリモではないということだ。
「あいつ、ほんとは剣道で特待取って来てんだよ。それなのに、入学してから一週間も経つのに剣道部に顔を出さねえ。このままじゃ、特待切られる」
「切られたらどうなるんだ?」
「学費が免除されてるからな。それが取りやめな上に、一般生徒に戻る。待遇的にはそれだけ? って感じだけどよ、居心地悪くなるのは変わりねえよ。それでなくても、剣道部の連中にはすでにやっかまれてんだ」
「お前、すげえなあ。よくわかるなそんなこと」
「おれに出来るのはこういうことくらいだからよ」
 クラスメイトは、がっくりと肩を落とした。何でだよ、とサンジは言う。
「お前みたいに情報集めて心配してくれる奴がいるって、すげえじゃん。あのマリモには勿体ねえよ」
 長鼻は顔を上げた。照れたように鼻の頭を掻いた。
「やっぱ、お前も変な奴だな。なあ、サンジって呼んでもいいか?」
「いいぞ。てか、お前名前なんてーの?」
「知らないのかよ!」
 しっかり突っ込んでから、クラスメイトは名乗った。
「おれはウソップだ。よろしくな」
「おう、よろしく」
 一区切りついたと判断して、サンジは椅子から立ち上がった。鞄を引っ掛けて帰ることにする。
「おいおい、んで、おれの頼みは聞いてくれんのか?」
 ウソップが焦ったように、サンジの背中に問いかけた。
「ああ? まあ、気が向いたらな」
「おいおい」
「おれは、お前と違って、まだ一週間のクラスメイトなの。そんなセンシティブな問題に関われねえよ」
 サンジは、ウソップを見て笑った。嘘偽りざる言葉だ。あのマリモは、サンジにとってまだ遠い。朝のジョギングの時でしか顔を合わせたことがないくらいの。クラスメイトではあるけれど、ただの他人なのだ。今後もきっとそうだろう。
「サンジー」
「ま、お前の相談には乗るよ」
 じゃあな、とウソップに告げて、サンジは教室を出た。忌々しいことに、廊下はしんと静まりかえっていた。
 レストランの手伝いも、遅刻間違いなしだ。あのマリモめ、と思わず恨みの念がふつふつと湧き上がる。けれど、すぐに剣道のおぼろげなイメージが出てくる。
 ゾロと剣道。しっくりくるような、こないような。
 自分が説得することになるとは思わないが、あんな風に寝入っているのだったら、剣道をしている方がよっぽど良いのに。
 関わらないと決めているはずなのに、帰りの道は無愛想な緑頭のことと、剣道のイメージがぐるぐると回って、なんだかもう、マーブル模様が作れそうなくらいだった。
 とりあえず、あの昼食はどっちにしてもいただけない、とサンジは思った。スポーツする人間なら尚更だ。
 マリモについて考えるのに飽きてきたので、明日の味噌汁は何にしようかと思いを馳せていると、いつもの散歩コースの川原に出た。土手の上から、緑頭の学生服がごろりと横になっているのが見えた。
 おいおい、制服が汚れるだろ。
 サンジは立ち止まってその姿を見下ろした。仰向けになって、ゾロは寝ている。あんなに眠っておいて、ここでも寝ているのだからすごい。ちょっと病気なんじゃないのかと少しだけ心配になる。そういえば、春休みの最後の日も、あの辺りで寝ていたなと思いだした。今日はパプリカを連れていないので、サンジは特に近寄るつもりはない。
 草に紛れた保護色の頭をじっと見降ろしてから、サンジは家に向かって歩きはじめた。
 明日の味噌汁の具は、ほうれん草にしよう。
 今度は、ほうれん草とゾロの緑頭でぐるぐるして、脳内にマーブル模様ができた。





2009/08/28

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