春と犬





 春休みというのは、定期の休みの中で一番暇だ。しかも、高校への進学を控えた休みならなおさらだ。別段課題があるわけでもないし、盆や正月などの日本的イベントもない。両親も仕事なので、家には一人きりだ。
 しばらくは誰もいない家の中でごろごろと寝ていたゾロだったが、だんだん飽きてきた。
 三日ほどは、道場に行く以外ずっと寝ていたので、さすがに体が鈍ってきた。
 このままではいけないと、早朝にジョギングでもすることにした。一度決めてしまえば、実行は早い。次の日には、夜が明けたと同時に起きて外に出た。早朝の空気はまださすがに冷たい。しかし、鳥の鳴き声がいかにも朝という雰囲気を醸し出していて、気持が良かった。
 コースは、前回ジョギングしていた時と逆回りにした。
 近くのほどほどに大きい公園を一周し、少し離れた川沿いへ向かう。土手に出たら、一番近い橋から次の橋まで走り、そこでストレッチをする。帰りはゆっくりと歩いて帰る。
 久しぶりだったせいか、速度は出なかった。それでも、怠けていた体がゆっくりと活性化していくような気がした。ちょっと大げさに言うと、生き返るような心持ちだ。
 学校があるときは道場の練習だけで精いっぱいだが、土日くらいはジョギングを続けるかな、とゾロは思った。
 二日目以降は、観察する余裕も出てきた。
 暖かくなってきたせいか、早朝でも出歩いている人が多かった。場所がら、犬の散歩をしているか、ジョギングをしているか、一人で散歩をしているかなのだが。
 走っているとついつい暇で、すれ違う人を眺めてしまう。
 早朝に出歩いている人間は少ないので、すぐに見知った顔ぶれが出てくる。
 さっきすれ違ったじいさんは、初日から見かけていた。たまに猫を連れて歩いている。猫を散歩させるなんて珍しいので、記憶に残っていたのだ。しかも、いきなりゾロの前に飛び出してきたので、あやうく踏みつけるところだった。今日は連れていなかったので、実は内心でほっとしていた。
 不細工な猫だったよなあ、と思いながら走っていると、見慣れた人影が見えてきて、ゾロは眉を顰めた。進行方向が同じなので、顔は見えない。後ろ姿だけが見える。おめでたい金髪をしていて、犬を連れていた。やる気のない歩き方で、犬の方が前に出て飼い主を引っ張っている。足の短い犬で、ちょこちょこと短い足が高速で動いている。腹が地面につきそうだといつ見ても思う。犬種の名前は思い出せない。フランクフルト、と似たような響きをしていたような気がする。
 調べればいいのに、ジョギングの後はすっかり記憶から消えてしまうため、こうして出くわすといつも脳が勝手に思いだそうと無駄な努力を始める。
 腹が地面につきそうな犬は、しっぽが完全に地面を擦っていた。その毛先に緑の葉っぱが付いている。まるで付属品のように、しゃらしゃらと地面を擦りながらもくっついていて、ゾロはふん、と笑った。バカな犬だ。
 追い越す瞬間、金髪の耳元から雑音が聞こえる。つけたイヤホンから音漏れがしているのだ。よく電車内でも出くわす迷惑野郎の一種である。
 朝っぱらからやかましい野郎だなあと思いながら、ゾロは一気に追い越す。追い越す瞬間、犬の尻尾についていた葉っぱが取れた。



 金髪野郎と犬のコンビは、この時間の常連だった。ゾロが走り始めてから、必ずどこかしらで見かけた。
 コースまで同じなのか、川沿いの土手と公園回りの両方で出くわす。帰り道に歩いている時にも見かけたことがあった。その時は、土手を下りた草原で、犬と戯れていた。「おら取ってこい!」とボールを投げて、「うああ、しまった!」と叫んでいた。見当違いな方向に投げて、ボールは川にどぼんしてしまっていた。アホだ。
 その後、ボールを追いかけた犬までが川にどぼんしようとしていた。あの短い足では犬かきも満足にできないだろう。焦った金髪の声が川原に響いていた。
「ばか、飛びこむなよパプリカー!」
 今まさに飛び込みます、というポーズを取っていた犬を、金髪が抑え込む。小さな足が、それなりにじたばたと動いていた。
 犬は飼い主に似るって本当なんだな、と土手から見下ろしていたゾロは感心した。
 素晴らしく、両方バカだ。
 ところで、犬の名前は「パプリカ」というらしい。
 またしても変な情報を仕入れてしまった。汗が乾いてきたので、ゾロは家に向かって歩き出した。



 五日目から、金髪野郎と目が合うようになった。いつもは進行方向が一緒だったのに、ルートを変えたのか、正面からすれ違うようになった。ゾロは土手の橋から橋まで移動する。その向いから金髪と犬がやってくる。
 金髪は相変わらずイヤホンから音漏れをさせている。鼓膜が破れるんじゃねえのか、とゾロはいらぬ想像をする。
 小学校のころ、子供同士で他愛もない喧嘩をしたことがある。その時、何の偶然か、掌で耳をふさぐような恰好で張られてしまった。とたんに、耳の中の空気は逃げ場を失って、鼓膜を突き破ってしまった。耳の中で大きくバチンと、何かが割れる音がしたのでゾロはひどく驚いた。
 まだ若かったおかげで、鼓膜は無事修復されたのだけれども、あの音はまだゾロの耳の中で残っている。トラウマとかいう無駄に悲劇的な言葉は使いたくないが、あの音をもう一度聞くことはいやだった。というわけで、ゾロはイヤホンの類が嫌いだった。極力耳をふさぐものをしたくない。
 だから、あんな風にイヤホンを耳に突っ込む形の、しかも大音量で聞いている人間の神経が信じられない。ああいう人種を見ると、自然にゾロの眉は寄る。
 しゃんしゃん、と近づけば音が聞こえる。ゾロは眉をしかめて金髪を見る。すると、ガン付けられたと思ったのか、金髪もゾロを睨みつけてくる。
 初めて正面から睨みあった時、金髪の眉が変な形に巻いているのが目に映った。最初は気のせいかと思ったが、今日も金髪の眉はぐるぐるになっていた。
 やっぱり変な奴だ。
 しゃんしゃんと、音漏れは急速に背後へと消えていった。



 ジョギングの効果か、体がいつもよりも動くようになった。道場でも足の運びがスムーズになっている。普段怠けていたわけではないし、むしろ欠かさず道場に来ていた。室内トレーニングも欠かさず行っていた。けれど、基礎体力の重要さが分かった気がした。瞬発力と持久力を養うには、もっと別の方法もあるということなのだろう。
 くいなが生意気にも「ゾロ、ちょっとは強くなったんじゃない?」と笑った。その見下したような笑みは気に入らないが、少しの賞賛が瞳に込められていたようで、ゾロは反論することを止めた。
 この二歳年上のくいなに、あと少しで勝てるかもしれないとゾロは初めて確信を持った。



 続けていこうと決めたはずのジョギングは、しかし次の日から出来なくなった。



 久しぶりに家のドアを開けると、ゆるい日差しが目を射ってくる。眼球に小さく痛みのようなものが走って、ゾロは瞬きをした。数日置いただけなのに、春の日差しは強さを増していた。
 軽く屈伸運動をしてから走り出す。
 鈍った足は思う通りに動いてくれなかった。無理はせず、ゆっくりと流すように走る。
 途中で猫を連れた老人を見かけた。不細工な猫はゾロの目の前に飛び出してきた。またかよ、と思いながらもひょいとよける。よけてやったのにも関わらず、手を出してくるのがちらりと見えた。あれはもしかすると、靴ひもにじゃれかかっていたのかも知れない。
 普段の倍くらいの時間をかけて、ゾロは土手にたどり着いた。鼓動が前よりも早い。息切れも激しく、ゾロは額に浮かんだ汗をぬぐった。
 土手に上がると、川から冷たい風が吹き付けてきた。反射的に目を瞑る。川の匂いがした。ざあ、と足元に広がっている草が揺れる。朝日が川面を照らしていて、きらきらと光っていた。
 走る気をなくして、ゾロは土手を下った。朝露が温められて、草の青い匂いが立ち上ってくる。中途で面倒臭くなって、ゾロは仰向けに倒れ込んだ。じわりと背中が濡れてくるのが分かったけれど、もともと汗に濡れていたので気にならなかった。
 見上げた空は青く、朝焼けの紫と赤がところどころに散っている。
 動く雲を見ていたら、たまらなくなってきて、ゾロは腕を目元に当てた。
 そのまま立ち上がる気力を無くしていると、耳元ではっはっ、と獣の息づかいが聞こえてきた。かなり近い。どこの野良犬だ、と無視していても、犬はゾロの周囲をぐるぐると回っているのか去ろうとしない。追い払おうと、仕方なく腕を上げると、ここ二週間ほどですっかり見慣れたバカ犬が見えた。
 くんくんとゾロの指先を嗅いでいる。濡れた鼻が少しついた。
「あっちいけ」
「言ってくれるじゃねえか」
 犬がしゃべったわけではもちろんない。頭上からの声に、ゾロは見上げる形で振り仰いだ。いつもの金髪が上下さかさまで映っている。イヤホンはしていなかった。眉はぐるぐるだ。
「人様の犬を邪険にしやがって。何様だ」
 反論する気もなくて、ゾロはごろりと寝がえりをうった。左腕を枕にして、金髪に背を向ける。バカ犬が頭に移動してきた。はっはっ、と煩い。呼気が頭皮にかかって気持ちが悪くなってきた。
 なに、眠いの?
 お前、最近見かけなかったけど、さぼりか?
 すごいのな、その頭。ここで倒れてっと、まるっきり保護色だぜ。
 金髪は横に座って、しゃべり続けている。けれど、声は遠くから聞こえる。それより犬の呼気がうるさい。本当にバカ犬とアホ飼い主だ。
「なあ、具合悪いのか、もしかして」
 少しだけ声のトーンを低くして、金髪が言う。無言でいると、犬が移動してきてゾロの胸のあたりに来た。鼻面をパーカーに押し付けて、横になる。地面につきそうだと思っていた腹が、ゾロの腹部に当たる。犬は温かかった。当たり前だけれども、生き物を飼ったことのないゾロには、少しの驚きだった。呼吸と共に腹部が動いて、鼓動まで聞こえる。
 ゾロは右手を上げて、そろそろとその背中をなでた。ふわふわしている見かけに反して、毛は硬かった。草の匂いと、獣の匂いが入り混じっている。
 犬を胸に抱えて、ゾロはきつく目を閉じた。
「おれのパプリカはな、人の気持ちのわかる、素敵なレディなんだ」
 ゾロは草に顔をうずめたままその声を聞く。
「三十分だけ、てめえに貸してやる」
 立ち上がって、草を踏む音がした。金髪が遠ざかる気配がした。
 ゾロは犬を抱き締めた。温かい。生きているんだなと思うとなんだか泣けてくるような気持ちがした。
 三十分も待たずに、ゾロは起きあがった。犬は尻尾を振ってゾロを見上げている。目は真っ黒で、くいなの目と同じ色をしていた。彼女と違って、知性はまったくなさそうだったが。
 川辺に金髪の丸い頭が見えたので、ゾロはそのまま犬を置いて土手を上がった。背中からの風は、朝の冷たい空気ではすでになく、ぬるくゾロの背を押した。
 冷えた背中とは反対に、胸の部分はまだ温かかった。
 のろのろと歩いて帰ると、途中で道場の前を通りかかった。喪中の黒い垂れ幕がかかっている。
 冷たかった幼馴染みのことを思い出して、ゾロはしばらく途方に暮れた。
 気づけば、春休みは今日で終わりだった。



 金髪とは、それから意外なところで出くわした。
 高校の入学式、長い校長の訓辞も、新入生の言葉も、とにかく全部寝て過ごしてから、割り当てられたクラスへと移動した。そのクラスにやけに見覚えのある後頭部があったのだった。
 ゾロが気付く前に、金髪が気付いた。
「あっ、お前っ!」
 金髪は驚きすぎじゃないのか、と心配になるくらい目を見開いている。
「タメだったのかよ!」
 ゾロの眉は盛大に寄った。
「うははっ、うっそ、信じらんねえっ……! タメ、タメかよその顔で!」
 ひーひーと、勝手にウケて笑っている金髪を無視して、ゾロは席に着いた。窓際の最後部。ベストポジションだということに満足する。
「あ、おいこら無視すんな」
 金髪は煩く追いかけてきて、目の前に座った。
「自分の席に坐れよ」
「ここおれの席」
 高校生活は灰色のようだ。ゾロはため息をついた。
 目の前でイヤホンをしゃんしゃん言わせていたら、絶対に殴ろうと心に決めた。
 ふと思いついたことがあって、ゾロは金髪を見た。眉はやっぱり巻いている。
「おまえの犬、ありゃなんて種類だ?」
「あ? ダックスフント?」
「それだ」
 疑問が解決されて、ゾロは少しだけ笑った。
「どれだよ」
 金髪は不思議そうに首を傾げた。春の日差しが、金髪の頭の上で跳ねた。




2009/08/20

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