僕のスローガン





 逃げてきた、という自覚がある。
 ここに引っ越してきたのは勿論偶然だったし、タイミングが見事に合致した結果であるが、サンジ自身にはどうしても「逃げた」という後味の悪さがずっと残った。自分のせいだけではないということは分かっているし、悲観して自己憐憫に浸るなんてつまらないことをするつもりはなかった。しかし、わかっていても感情がついてくるかというと、そう上手くはいかないもので、面倒なことを放り投げてきてしまった、という自覚だけはずっと尾を引いていた。
 本当に、正直なところ面倒になっていた。人間関係というのは本当に面倒くさい。
 学校という場所は本当に吐き気がするくらいに閉鎖的で、息苦しくなる。人は人、自分は自分、と好き勝手に行動することをどうしても許してくれない。溶け込み、迎合して、同一になることを求められる。それに応えられない人間は、だから異物として排除されてしまうのだろう。
 とはいっても、サンジは別に排除される側なわけではなかった。勿論排除する側でもなかった。ただ、一番忌み嫌っていた「面倒くさいこと」に知らず知らずのうちに巻き込まれていた。小さな螺子の回転が、歯車を回すように、それは予想もしなかった結果を招いて、こうしてサンジは「逃げて」きた。
 引越しというタイミングは本当に絶妙だった。
 もう、人に深く関わることはやめよう、とサンジは心に決めていた。目立たないように、しかしそこそこ社交的で、優等生でも落ちこぼれでもなく中途半端に、そして無事に三年間を過ごすのだ。
 なのに、最初の計画は早くも暗礁に乗り上げてしまった気がする。
 マリモに関わってしまったのは本当に失敗だった。何でか放っておけずに、しかも自分から関わってしまっている気がする。
 気をつけなければならない。
 サンジは毎朝、そう思いながら弁当を詰めている。




「おいチビナス、なんだそれは」
 ゼフが朝っぱらから不機嫌そうにテーブルに広げられている物を指差した。
「ああ? 見りゃわかんだろ、弁当箱だ」
 まさにその弁当箱に具材を詰めていたところだったので、サンジはゼフを見ずに返事をした。
「なんでそんなに数が多いんだ。おめェ、そんなに食うのか」
「んなわけあるか」
 サンジは少しだけためらった後、何気ない口調で追加した。
「こりゃダチの分だ」
「五人もか」
「四人だっつの。いっこはおれの分」
「四人もか」
 ゼフは呆れたようにテーブルの半分を占拠している弁当箱を見回した。
「つーか、さっさと飯食えよ。片付かねェ」
「ふん」
 鼻で笑って、ゼフは食卓についた。いつもなら何だその態度、朝食作ってんのは誰だと思ってやがる、と突っかかるところだが、あいにく時間がなかった。ゼフと自分の朝食を作り、洗濯機を回して干し、弁当まで詰めなければならない。朝は戦争なのだ。時間との無限の戦いだ。ちなみに、仕上げにゴミ出しも残っている。今日は燃えないごみの日である。
 サンジは目の前の大小様々な弁当箱におかずを詰めていく。キャベツを敷いた上に、昨日の残り物のハンバーグ、出汁巻き卵、煮かぼちゃ、ピーマンともやしの胡麻和えにプチトマトを添える。一人分だけ、ハンバーグは倍の量を入れてやった。ちなみに、ご飯は三倍である。
「多すぎじゃねえのか、それ」
 ゼフが朝食を取りながら突っ込んでくる。いつもは弁当を詰め終えた後に起きてくるので、サンジが作っている場面に出くわしたのは初めてだった。
「よく食う奴なんだ、これが」
「毎日作ってんのか」
「おお。あ、ちゃんと材料費はもらってるぜ。言っとくけど、ぼったくりじゃねェからな。まんま原価」
「ふん、調理師免許も持ってねェんだてめえは。本来なら金なんて受け取れねェはずだがな。違法だぞ」
「うっせえなジジイ! んな正論にはいそうですかと同意できるか! さすがに無料で提供できねェよ!」
 弁当の蓋を閉めて包みながら、サンジは反論する。
「まあ、食中毒だけは起こすなよ」
「誰が起こすか誰が! ちっくしょ、ちゃんと皿は流しに置いて置けよ!」
「毎日洗ってるだろうが、チビナス」
「チビナス言うな! このやろう行ってきます!」
「おう、行って来い」
 小さい頃の躾のせいで、出掛けの挨拶はしっかりとしてしまうサンジだった。一度おろそかにしてしまったら、家を出た後にも妙な罪悪感が胸の底に残ってしまったので、それからは無駄に反抗しないようにしている。
 弁当を入れた紙袋とゴミ袋を抱えて、サンジは玄関に駆けていった。洗濯物は間に合わないので、帰ってきてから回すことにする。およそ一般的な男子高校生の姿とはかけ離れているなァ、と少しだけしみじみと思った。
 扉を開けると、梅雨の時期にも関わらず、珍しく晴れ間が覗いていた。太陽の光が目に染みた。




 サンジが複数人の弁当を作り始めて、一ヶ月ほど経った。
 発端は、ゾロに変な情けをかけてしまったことだ。おかげで、サンジの昼食は騒がしいものとなっている。それ以前にも、たまに隣のクラスのルフィがサンジの弁当をねだりに来ていたりもしていたので、人に食べさせることへの抵抗がなくなっていたことも原因の一端かもしれない。
 なんだかなあ、と思いつつもサンジはそこそこ楽しんで作っている。中学時代は給食だったので、人に弁当を作ったことはなかった。目の前で美味しそうに食べてもらえることは、サンジにとっても良い経験になっている。どういう料理が同じ年頃の人間に好まれるのか、男女ではどうなのか。味付けの好みはどうか。素直な反応が見えて面白い。祖父の店で得る経験とは違って、勉強になる。観察力を磨け、とゼフはよく言っていた。うまいかまずいか。そういう反応は表情に如実に現れるのだと。その表情の意味を読み解いてこそ、一流になれるのだと。
 サンジが嫌がらずに作ってくるせいで、今では、ウソップとゾロとサンジという同じクラスメイトに加えて、中学の同級生だったというナミとルフィ、そしてナミと同じクラスのビビまで交えてのランチタイムとなっている。そのうち、サンジが作成しているのはビビを抜かした全員分である。
 あの可愛いナミと知り合えた上に、その弁当まで作ることが出来て、サンジはこのところとても幸せだった。しかも、新しくビビという女子も紹介してもらって、高校生活はばら色だった。なんだか幸先が良い。いろんなおまけが付いてきているけれども。
 彼らの友人関係に深入りするつもりはないが、目の保養があるのは純粋に嬉しいものである。サンジも健康的な男子生徒であるので。
「うっほー! 今日はハンバーグかあー!」
 ルフィは叫びながらすでにハンバーグに箸を突き刺している。誰よりも大きい弁当箱を抱えているが、体は一番小さい。どこにこんな量が入るんだか、と感心を通り越して脅威を覚えるくらい、ルフィは食べる。彼だけは、弁当箱ではなくて業務用のタッパーに入れてある。おかげで毎日肩が抜けるほど重い。
「あら、ピーマンの胡麻和えなんて初めて食べたわ。結構おいしいのね」
 ナミがピーマンをつまみながら感心したように呟いた。
「ほんと? ナミさんに気に入ってもらえるなんて、ピーマンも果報者だなあ〜!」
「別にピーマンを褒めたわけじゃないわよ」
「おれは幸せ者だ〜!」
「いいから食えよ、サンジ」
 ウソップが呆れたように言うのも毎度のことだ。ゾロは無言で飯を掻き込んでいる。ビビが出汁巻き卵に少し目線を流していたので、サンジはプレゼントだと言ってビビの弁当箱の中に入れた。ごめんなさい、とビビは申し訳なさそうにしながらも、嬉しそうに頬張る。
「サンジさんの玉子焼きって、砂糖じゃなくてみりんの甘さなのね。出汁もたっぷりで凄く好き」
「あらビビも? うちも砂糖入りで甘めだから新鮮なのよねー。噛むと出汁が出るのがたまんないわよね」
「ナミさんのお家も? うちも甘めなのよ」
 女子二人の会話を、サンジはにこにこして聞いていた。こういう会話を聞くことができるだけで、朝の苦労も報われるというものだ。  そう、誰のためでもない。こういう顔を見たいと思う、自分のための苦労なのだ。
 それに比べてこの野郎は、とサンジは横目でゾロを見た。ルフィとウソップはまだ良い。うまいうまいと言って食べてくれるからだ。ルフィなどははっきりしていて、苦手なものは苦手だと言ってくれる。ウソップもだ。そういう反応が欲しいのに、ゾロだけは何も言わないで黙々と箸を進めている。無表情で食べているので、美味いのかまずいのか、好物なのか嫌いなのか、それすらもわからない。なんとなく、サンジの方から感想を求めるのは癪に障るので、一ヶ月経っても何も聞けないでいる。
 なんとか好物だけでも調査したいと思っているのに、この緑頭の表情筋はぴくりとも動かないのだから、苛立たしいことこのうえない。これも修行のうちだと思って、サンジはじっと耐え忍んでいる。
「うし、ごっそさん」
 今日もゾロは綺麗に弁当箱を空にすると、パンと両手を合わせた。そういうところは好感が持ててしまうので、サンジはいつも憮然とするしかない。米粒一つ残したことがないのだから、文句の出る隙間もない。
「そういえば、サンジ君って、どうしてこっちに引っ越してきたの?」
「……え?」
 ゾロから弁当箱を受け取ろうとしたときに声を掛けられて、サンジは弁当箱を受け止め損ねた。かたん、とコンクリートの上に落ちる。
「おい、しっかり持てよ」
 ゾロが文句を言いつつ拾っている。
「ああ、悪ィ」
 ゾロに気のない返事をしてから、サンジはナミを振り返った。
「ええと、なにかな、ナミさん」
 ナミはハンバーグを口に入れて租借してから、首をかしげた。
「だから、なんでこっちに引っ越してきたか聞いたの。だって、言っちゃ悪いけど、めちゃくちゃ田舎じゃない、ここ。一応県庁所在地だけどさ。うちの姉から聞いたんだけど、サンジ君のお祖父様って、東京でお店構えてたんでしょ? わざわざこっちに来てお店開くなんて、そこまでいいとこあるかしら、ここに」
 サンジは動揺を押し込めて、ナミに笑って見せた。
「田舎だなんてとんでもないよナミさーん! こーんな素晴らしいレディがたくさんいるなんて、ここはパラダイスだよ!」
「はいはい茶化さない! 別に話したくないならいいのよ」
 ナミはつまらなそうに目を細めた。女の子は鋭い。サンジが話したくないと思っていることをしっかり見抜いている。
「別に、本当にたいした理由じゃないんだ。もともと、うちのジジイはやたらと食材にこだわるタイプでさ。昔から、産地近くで店を開きたがってたんだ。あと、水が綺麗なところでね。料理の基本は水だから。ここの水が気に入ったらしくて、それが決め手」
「そんなに本格的なの。すごいのね。今度食べてみたいわ」
 ビビが感嘆したように呟いた。それには自然に笑顔を向けることが出来た。
「ジジイは偏屈だけど、料理の腕はいいよ。今度食べに来てよ。おれが手伝ってる時なら、デザートとかサービスできるし」
「なんだ、サンジも手伝ってんのか?」
 食い物に関しては興味が人一倍向くらしく、ルフィが顔を輝かせた。おれも行くぞ! とナミに訴えている。
「休日はな。おいこらウソップ。椎茸残すな」
「げ、ばれたか」
「ばればれだっつの」
 会話をしている間に蓋を閉めようとしていたウソップをとがめると、彼は苦笑いをした。
「あんまり味しないように煮てあんだぞ。干し椎茸だから、他のキノコより滑りもないし。いいから食ってみろ。絶対食わず嫌いだって、おめェのは」
「食った上で嫌いなんだよー。なー、勘弁してくれえー」
「食ってそれでも駄目だったら残していいから。ほら食え」
「ええー、殺生なー」
「死にはしねェよ」
 ウソップとのやり取りで、サンジは話題をうやむやにした。
 田舎だ田舎だ、とナミが言うけれど、確かに田舎だと思うところは、こういうところだ。外からやってくる人間が珍しいせいか、あけすけと聞いてくる。ゼフも近所から色々と聞かれていたようだし、噂をされていることも知っている。都会の無関心さとは真逆だった。関心を率直に示してくる。
 そういうところは嫌だ、とサンジは思った。詮索はされたくない。サンジのことは放っておいて欲しい。
「おい、弁当箱」
「ああ」
 拾った弁当箱をサンジに渡して、ゾロは立ち上がった。
「先に戻る」
「あら、早いのね」
「次当たるんだよ。おい、ノート借りるぞ」
 自分に言っているのがわかって、サンジはむっとゾロを睨みつけた。
「何当然のように言ってんだ、あほ! 自力でやれ!」
「自力じゃ間に合わねェ。じゃあな」
「じゃあなじゃねェよ、おいこら待てって! 勝手に漁ったら蹴るぞ!」
 サンジが止めるのをあっさり無視して、ゾロは屋上のドアを開けて出て行ってしまった。
「なんっつー自分勝手な野郎なんだ!」
「あきらめろサンジ。ゾロだから仕方ねェ」
「しかし、よくもまあ手懐けたわね、サンジ君」
「は? 手懐けた?」
 ナミは感心したようにゾロが出て行った方を見ている。
「あいつ、結構人見知りするタイプなのに」
「あはは、やだなあナミさん。そんな冗談」
「いいえ、ほんとよ」
「マジ?」
 ナミはこっくりと頷いた。
「うん、マジよ」
 サンジはそっと、ゾロが出て行った扉に視線を向けた。
 波風が立たないように、そこそこ楽しそうに、まあまあ社交的で、適当に表面だけの付き合いをして。そう決めた境界が若干揺らいでしまっている気がする。
 やっぱり、あの緑頭に関わったのは間違いだった、とサンジは思った。




 校門を出たときにはまだかろうじて曇天という感じだったのに、帰路を半分くらい過ぎたところで、とうとう雨が降り出してきた。
 慌てて走り出したが、すぐに大降りになってきてしまった。
「マジかよ!」
 すぐに靴の中に水が染みてくる。周囲を見回しても、さすが田舎である。個人宅ばかりで、雨宿りできるような店はない。
 半ばあきらめながらも走っていると、不意にどこかから呼ばれた気がした。雨音が酷くて、最初は聞き逃してしまった。反射的に声の方に振り返ると、一軒の門から顔を出したゾロがいた。小さく手招いている。
「来いよ」
「何お前、ここお前んち?」
「いいから早く入れ」
 今更雨宿りしても無駄なくらい濡れそぼっていたが、サンジはゾロの招きに応じた。まさしく日本屋敷、という門構えの家に興味があった。なかなか東京では見られないような、立派な門である。雨でけぶる空気を掻き分けるようにして、サンジはゾロのところへ走った。門には瓦の屋根がついていて、サンジはほっと息をついた。七月に入ったというのに、梅雨の雨は冷たい。髪から制服の袖から雫がぼたぼたと落ちる。切り取られたように乾いていた地面に、染みを作っていった。
「あーあ、かんっぺきにやられた」
「なんで傘持ってねェんだお前。梅雨だぞ。あほか」
 ゾロは心底呆れた、というような声で言うので、サンジはむっとした。
「うっせェな。おれは朝に雨が降ってなかったら傘なんて持たねェんだよ」
「ますますあほだな」
「ほっとけ。うおっ、絞れる」
 髪を絞ると、シャワーを浴びた後みたいに水気が出てきた。
「タオルくらい貸してやる。こっちに来い」
「お、珍しく気が利くな。しっかし、お前んちって凄いのな。日本家屋って感じ」
「おれんちじゃねェよ。師匠の家だ」
「師匠って剣道の?」
「ああ」
 確かに言われて見れば、ゾロは胴着姿だった。部活をした上に、道場にも通っているらしい。
 ということは、死んだ幼馴染みの家でもあるのだろう。そうと知っていて踏み入るのは気が引けた。死んでしまった娘と、同じ年頃の子供がお邪魔してはいけないような気がした。親はきっと辛いだろう。まだ傷はざっくりと深く、それはいつまで経ってもふさがることはない。
「やっぱいいわ。ここまで濡れたら同じだ。走って帰るさ」
「立ち止まったなら意味ねェだろ。いいから寄ってけ」
「いいって」
 足元に下ろした荷物を、サンジは抱え上げた。
「走って帰って風呂入った方が早い。んじゃな」
 わざわざタオルを出す必要もなくなって楽になるはずなのに、ゾロはなぜか深くため息をついた。わざとらしいため息だったので、サンジも流すことが出来なかった。
「なんだよ」
「人には煩く関わってくんのに、気持ち悪ィ遠慮なんかすんな。いいから、来い」
「え、ちょっと、待てって」
 ぐい、と手首を握られて引かれた。
「走るぞ」
「だから待てって」
 ゾロの手は強くサンジの手首を掴んでいて、振り払うことは出来なかった。ずっと雨の中を走っていたせいで、思った以上に体が冷えてしまっているらしい。ゾロの掌はとても温かかった。それに気を取られていたせいで、サンジは結局手を引かれるまま、屋敷の方へと連れて行かれてしまった。
 母屋ではなくて、明らかに「道場」といった風情の建物へ向かってゾロは走っていく。
「ここで待ってろ」
 小さな玄関口にサンジを押し込んで、ゾロはさっさと中に入っていった。サンジは仕方なく、突っ立ったまま周囲を見回した。サンジは武道などに全く縁のない生活を送っていたので、少し物珍しかった。道場の内部は薄暗く翳っていて、覗き込む気にはならなかった。その代わり玄関口を見回すと、生徒が通っているのだろう、小さな下駄箱と、片隅には竹刀が立てかけられていた。上がりがまちは古いながらもよく磨かれていて、木肌はつやつやと光沢があった。サンジが立っている土間も、綺麗に掃かれている。折角綺麗にされているのに、自分が立っているところがじわじわと雨水で湿っていく。
 サンジはあまり動かないようにしようと思いつつも、下駄箱の上に置かれた写真に目が止まってしまった。
 ここの生徒全員で撮ったものなのだろう。小学生から高校生、果ては祖父と同年代くらいの人々で埋められている。どうやら、剣道には年齢の垣根がないらしい。
 その中央に、見覚えのありすぎる緑頭があった。目立ちすぎることこの上ない。今よりもずっと幼い。中学生くらいに見えた。無愛想に、まるで喧嘩を売っているみたいに眉を顰めてカメラを見ている。
 昔から愛想が悪いのか、とサンジは思わず笑ってしまった。この顔で剣道だなんて、同年代の連中はさぞかし怖かっただろう。
 その横には、黒髪の女の子が写っていた。とても可愛いけれど、目に力がある。賞状を広げて抱え持って笑っている。
もしかして、と思っていると、ゾロの足音が聞こえた。はっとして入り口を見ると、道場からゾロが顔を覗かせた。
「ほら、これ使え」
「……ああ、悪ィ」
 投げられたタオルを受け取って、サンジは髪の毛を拭いた。乾いたタオルはどことなく温かい。
 水気を取るだけで、大分寒さが和らいだ気がした。次いで、制服のシャツにも当てる。面白いくらいにじわじわと、タオルは水分を吸収していった。あっというまに湿っぽくなる。
「一枚じゃ足りねェか」
「もういいって。悪ィけど、余ってる傘貸してくれるか。明日ちゃんと返すからよ」
「ああ。そこに置き傘入ってるから持ってけよ」
「サンキュ」
 少なくともずぶ濡れ状態は緩和できたことで、サンジの体温も少し戻ってきたような気がした。傘を借りられるなら、風邪も引かずにすむだろう。
「風呂でも貸せればいいんだけどな。さすがにおれの家じゃねェからな」
「いいっつってんだろ。なんなんだマリモ君。今日はやけに親切じゃねェの? 気持ち悪いんですけど」
「うるせェな」
 ゾロは嫌そうにサンジを見下ろした。
「このぐらいは普通だろ」
「ふーん」
 そうか、このくらいは普通なのか、とサンジは心に留めた。クラスメイトで顔見知りであれば、呼び止めてタオルを貸すくらいは当然なのだろう。やっぱり都会とは勝手が違うなァ、とサンジは思った。都会だったら、さっさとコンビニでビニール傘を買って終わりだ。
 さて、とサンジは荷物を抱えた。
「悪かったな。稽古の途中だったんだろ。おれは帰るから」
「いや、もうおれも切り上げるところだった。一緒に出るからちょっと待て」
 言い捨てて、ゾロはサンジが持っていたタオルを抜き取ると、また道場の中に入っていってしまった。待ってろと言われた手前、勝手に帰るわけにはいかないだろう。何なんだ、と思いながら、サンジは再び写真へと目を向けた。
 ゾロと、そして黒髪の少女。
 きっとこの子が幼馴染みの少女なのだろう。誇るでもなく、当然という顔をして、それでも嬉しそうに賞状を手にしている。強かったのかもしれない。自信が顔に表れていた。
 幼馴染み、というのはどれくらいの距離なのだろう。ふと、サンジはそんなことを思った。自分にはよくわからない。小さい頃からの友達というのはいなかった。祖父に引き取られる前は転校を繰り返していたし、物心ついた時には、距離の測り方というものがわからなくなっていた。
 小さな頃からお互いのことを知っていて。当然のように近くにいたのだろう。
 そんな人間が死んでしまった。それはどれくらいの衝撃だったのだろうか、とサンジには想像することすら気が引けてしまう。初めて会った頃、土手でぼんやりと空を見上げていたゾロをまだ覚えている。
「待たせたな」
 じっと写真を見ていたせいで、ゾロが戻ってきていたことに気づかなかった。はっと、サンジはゾロを振り返った。ゾロは制服に着替えていた。
「あ、ああ」
 何となく後ろめたい気持ちで、サンジは悪態を付くことなく、曖昧に頷いた。
「何だ、写真見てたのか」
「……あー、まーな」
 靴を履き替えながら、ゾロは淡々と言う。
「おれの隣にいるのがくいなだ」
 聞きたくないのに、そんなことまで教えてくれる。くいな、という名前は聞き覚えがあった。ゾロが剣道を再開した後に、ウソップが話してくれた。深入りしたくはなかったので、聞き流していたのだが、記憶には残ってしまっていた。やっぱりこの子が幼馴染みの少女だったのだ。
「そうか」
「その頃はまだ男女混合の試合があってな。おれはいつもくいなに負けてた」
「お前が?」
「ああ。あいつは強かったからな」
 よし、行くか、とゾロは立ち上がった。がらがらと玄関を開けると、雨音が大きく鼓膜に響いた。
「結局死ぬまで、おれはあいつに勝てなかった」
 そんなことを言われても、サンジには返す言葉がない。無言でゾロの後に付いて、道場を出た。結局家人には会わなかった。それでよかった、と思った。ゾロもまた無言で歩いていくので、サンジはその背中に声を掛けた。
「んじゃ、くいなちゃんは、おまえに唯一、永遠に勝ち続ける女性なんだな」
 写真の中で誇らしそうに笑っていた少女を思い出していたら、そんな言葉が勝手に出ていた。彼女は本当に剣道が好きだったのだろう。
 道の途中で、ゾロは立ち止まった。
「なんなんだ。いきなり止まんな」
 後ろを歩いていたので、サンジは傘をぶつけそうになった。
「そうだな」
 ゾロはちらりとサンジを振り返って、笑った。サンジは驚いて傘を落としそうになった。ここで濡れたら本末転倒なので、辛うじて堪える。
 笑った、こいつ、笑いやがった。
 何でか知らないが、サンジは酷く動揺した。これはいけない、と体の奥底から危険信号が点滅した。
「んじゃ、おれはこっちだから。ちゃんと風呂入れよ」
「……あ、ああ」
 静かに動揺しているサンジに手を挙げて、ゾロはさっさと道を曲がって行ってしまった。まっすぐ伸びた背中を、サンジはつい数秒間だけ見送った。
「……あーあ」
 何となくため息も漏れてしまう。
 やっぱり、ゾロに付いて行くのではなかった。そう思いながら歩き出した。
 田舎の距離というのは、近くていけない。何度も思ったことを再確認した。当たり障りのない人間関係、をスローガンとしているのに、どうしてかサンジはゾロに対してだけお節介を焼いてしまう。初めから家に上げて食事を振舞ったりなどしていたのだから、自分で自分の行動の脈絡のなさに恐れ入る。
 それからだって、弁当を囲むだけで、ゾロと個人的に仲良くなったりなどしていない。表面的なやり取りや口論をしているだけだ。
 それなのに、だ。
 つらつらと一人反省会をしていると、あっという間に家に着いた。鍵をドアに差し込むと、音を聞きつけたのか、扉の向こうでパプリカが吠える声が聞こえた。その声を聞くと、自分のテリトリーに帰ってきたと安堵する。
「ただいま」
 扉を開いたとたんに、パプリカが飛び掛ってくる。獣は温かかった。
「駄目だって、濡れてるから冷たいぞ」
 がしがしと愛犬の頭を撫でながら、サンジは心底困っていた。濡れているにも関わらず、全力でサンジに体当たりをしてくるパプリカに、ではない。
 ゾロの笑い顔が頭から離れない。友人関係なんて面倒くさいと思っているのに、もうこりごりだと心底うんざりしているというのに。
 近づいてみたい、と思っている自分を、サンジは玄関の中で認めた。パプリカを抱いて草むらに寝転がっていたゾロを、今になって思い出した。あの時すでに、自分はゾロのことが気にかかって仕方なかったのかもしれない。
 あー、参った、とサンジはパプリカを抱いたまま、ひっそりと呟いた。
「ほんとに、参った」
 借りた傘の先から、ぽたぽたと水が落ちる。じわじわと丸く玄関を黒く染めていく。その様子を眺めながら、侵食されてくみてェだ、と思った。







また続きます……。
2010/01/03

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