11月の空





 気がついたら、真っ白な場所にいた。
「……ああ?」
 思わず眉を顰めて、ゾロは周囲を見回した。見回してみても、広がるのはただただ真っ白な空間で、空はおろか、壁すらもなかった。本当に、何も無いだだっ広い白い空間にいる。足元を見下ろしてみると、ふわふわと頼りない感触がした。まるで雲の上を歩いているような感じである。実際に歩いたことは無いので、まあ雲の上を歩けるとしたらこんな感じだろう、というような適当な感想なのだが。
 それにしても、どこに行けばいいんだ、とゾロは憮然とした。試しに数歩歩いてみたけれども、景色が全く動かないので、その場で足踏みをしているような無意味さだった。無駄なことは嫌いなので、ゾロは早々に諦めて、その場に座り込んだ。ふわふわと、やっぱり何となく雲の上にいるような感触がする。地面に手を触れてみても、どこか触覚は遠い。膜を通して触れているような頼りなさがあった。
 一体なんでこんなところに出ちまったのか。
 考えることも面倒になって、ゾロはその場で仰向けになった。空を仰いでも白い空間が広がるばかりなので、目を閉じた。必然的に眠くなった。



「信じらんねェ」
 わき腹を蹴られて、ゾロは目を覚ました。さっきまでは白かった空間に、光るものが見えて、ゾロは思わず目を瞬かせた。
「誰だ、お前」
「誰だとはご挨拶じゃねェの。ここに来ていきなり寝こけちまった奴を迎えに来てやったってェのに」
 光って見えたものの正体は、人間だった。ゾロと同じくらいの年頃に見える。髪の色はあまり見たことのないような金色で、しかし眉毛が奇妙に丸まっていた。ゾロは思わず、その珍妙な眉毛を見上げてしまった。
「おいおい、起きてっか? いいからさっさと立て。行くぞ」
「どこに」
「それを案内してやるために来たんだ。いいから、立てよ」
 案内と言われても、道も何もない。ここはどこで、お前は誰だ、と聞きたいことは山ほどあったけれど、ゾロはとりあえず立ち上がった。立ち上がると、金髪は同じくらいの目線だった。身長も似通っているらしい。金髪はゾロと同じ高さでじろじろと見てくる。
「お前の頭ってすごい緑だな。天然色?」
「染めてどうすんだよ」
「だよな。逆にその色に染めるほうが趣味疑われるよな」
「バカにしてんのか?」
「いいや、面白がってるだけ」
 殴っていいかなこいつ、とゾロは拳を握り締めてみたが、金髪が背中を向けてしまったので、殴る機会を失ってしまった。
「ほら、こっち来いよ」
 金髪に従って歩いていくと、前方に少し灰色の空間が見えた。歩くたびにそれがじわじわと大きくなってくるので、ゾロはやっと遠近感を取り戻すことができた。灰色の空間は扉の形をしていて、見上げるほど大きくなったところで、突然潜り抜けた。
「なんだこれ」
 抜けた先は眩しかった。純粋に光が差しただけではない。真っ白な空間から一転して、色彩に溢れていた。目の前を流れるのはゆるやかな川で、きらきらと水面が光っている。水は透明だけれども少し水色がかっている。川の手前は原っぱのようになっていて、様々な種類の雑草が生えていた。ところどころ花もある。タンポポまで揺れていた。
 そこまではありそうな風景だ。しかし、川の向こうはすっぽりと空間を切り取ってしまったかのように真っ白だった。真っ白と言っていいのかもわからない。ただ、なにもない、と感じる空間だった。
「どこだ、ここは」
 こんな場所は見覚えがない。そもそも、現実ではありえない風景だ。
「なに、お前まだ気づいてないわけ?」
 金髪は少し驚いたように目を見開いた。それから、少し気の毒そうな目でゾロを見てくる。どうしてそんな目で見られなくてはならないのだろうと思う間もなく、金髪は口を開いた。
「ここ、死後の世界ってやつだ」
「……はあ?」
 ゾロの足元で、タンポポの綿毛が揺れた。風まで吹いている。牧歌的、なんて言葉がゾロの頭で点滅した。
「お前、死んだんだよ」



 死んだ。誰がだ、なんて聞き返す手間は取らなかった。おれだ。おれが死んだのか。ゾロは腕を組んだ。
 目覚める前のことを思い出そうとしても、しかし脳内には何もなかった。自分の名前や過ごしてきたこれまでのことは思い出せたが、死ぬ原因となったことに思い至らない。
「……おい、聞いてるか、おれの話?」
「ああ、わりィ」
 金髪は少しゾロの様子を伺うような素振りを見せた。ゾロがどう思うのか気になるらしい。
「ここが死後の世界ってェことはわかった。で、どこに行きゃあいいんだ?」
 ええ、と金髪は目を見開いた。それから、たまりかねたように笑い出した。あはははは、と弾けるように笑う。そうすると、ゾロよりもずっと幼いように見えた。変な奴だ、とゾロは思う。大体、ここが死後の世界だというのなら、こいつは一体何者なのだろう。
「ひー、笑った笑った。勘弁しろよ全く」
「何がだよ。勝手に笑ってんな」
「うるせェ、笑わせろ。あー、久しぶりに笑ったわ」
 まだ少し笑みを滲ませて、金髪は川の向こうを指差した。『死後の世界』と言われてからこの光景を見回して、ゾロは深く納得した。なるほど、これはいわゆる三途の川らしい。実在するのか、と変なところで微妙に感動した。
「この川の向こうに行けばいいだけだ。何か、川向こうから呼ばれる感じとかしないか?」
「いいや、全然」
 川は川だ。地上の川よりも澄んだ、むしろ生き物がいない無機質な川に見える。その向こうは真っ白で、そちらに行きたいとは思わない。
「死後の世界ってェのはつまんねェとこだな」
 もっと鬼だの閻魔だの出てきてほしいところだ、とゾロは言った。そうしたら、なぎ倒す楽しみがあるのに。
「鬼、閻魔って……! そりゃお前地獄の話だろ……!!」
 何のツボに嵌ったのか、金髪はまたしても笑い出した。笑いの沸点が低すぎる。まあ、確かに、天国よりは地獄って面してるけど! と金髪は失礼なことを笑い混じりに言う。
 さすがに笑いすぎなので、ゾロは金髪の頭を軽く殴ってやった。感覚は鈍いが、ちゃんと叩いた衝撃は伝わったようで、「何しやがる」と金髪はガンをつけてきた。
「しかし、おっかしいな」
 金髪は首をかしげた。
「何がだ」
「お前、ほんとは生きてんじゃねェの?」
「ここは死後の世界だっつったのはてめェだろ」
「いや、正確に言うと、川向こうがあっちの世界。ここはまだ中立地帯だ」
「へえ」
「へえ、じゃねェよ。そういや、お前はちゃんとおれと話が出来るもんな。おかしいと思ったぜ。普通のやつらは、さっきの白い空間にいる時から、自然とこっちに来るんだ。川向こうから呼ばれるみたいにな。おれが話しかけても上の空で、立ち止まりもしないで川に入っていく。たまに誰かの名前を呼んだりしているから、きっと先に死んだ誰かが呼んでるのかもしんねェな」
 何となくすわりの悪い話である。さすが死後の世界、とゾロは感心した。金髪はこともなげに話すが、あまり見ていて楽しいものではないだろう。
「お前には呼び声とか聞こえねェのか? まだ若いから、呼んでくれる人もいねェからかな」
「……いや、一人いる」
 小さい頃に死んだ幼なじみを思い出したけれど、ゾロは頭を振った。
「でも、あいつはおれなんかを呼ばねェな。来たきゃ勝手に来いと言うだろうし、来たら来たで怒鳴られるか、もしくは大爆笑されるかだな」
「そりゃまた珍しい反応だなァ」
 金髪は楽しそうに笑った。しかし、すっと笑みをなくして、ゾロの後方へと指を伸ばした。
「やっぱ、お前おかしい。ぜってェ間違ってここに来てんな。早くもどれ。きっと今なら間に合う。確証はねェけど」
「ねェのかよ」
「ここの管理人ってわけじゃねェからな」
「違うのか? 道先案内人ってヤツじゃねェのか」
「お前みたいな奴には必須だよなあ」
 金髪はケタケタとまた笑った。笑いすぎじゃねェのか、とゾロは少しうんざりしてきた。金髪が笑うせいで、まともな会話が長続きしない。
「ま、おれは違うよ。ただここにいるだけだ」
 笑いを収めて、金髪は、「さ、戻れよ」とゾロの肩を押した。
「お前を待ってる奴らがたくさんいるんだろ」
 ゾロはその手を掴んだ。感覚は鈍いのに、どこか温かいと思った。血流とか、そういう生きている感触は無い。しかし、温かいとは思った。
「お前も、おれと同じだな?」
 反射的にそう口に出していて、ゾロは自分の言葉を耳から聞いて納得した。金髪も、ゾロと同じなのだ。この場所に意識があって存在していること、川向こうから呼ばれて行ってしまわないこと、なにより、こうして二人で会話が成立すること。考えればなんてことはない、金髪もゾロと同じなのだろう。中立地帯で中途半端な人間なのだ。
「……お前、ここにどのくらいいるんだ?」
 金髪はゾロにつかまれた手を見下ろしながら、首を振った。前髪に隠れて、目は見えない。
「さあな。もう忘れちまったよ」
「戻ればいいじゃねェか」
「おれには、その資格がないんだ」
 金髪は尚も目を反らしている。それが気に食わなくて、ゾロは手首を掴んでいた手を離して、頬を固定した。間近で覗き込んだ瞳は青かった。下界の空の色と同じだ、とゾロは思った。こんなまがい物の空よりもずっと。
「資格ってェのはなんだ。じゃあお前はずっとここにいんのか」
「いつかは行けるようになるさ。おれを呼んでくれる人が、ここに来るまで、待ってんだ」
「ありがた迷惑だな、そりゃ」
 ゾロはふん、と鼻で笑った。ばしばしと金髪の頬を叩く。
「いてえっ。いいから離せよ。とんだ乱暴者だなお前は!」
「資格がねェってのはどういうことだ」
「……なに、お前ってもしかして超お節介系?」
「そんな系統は知らねェよ。まぜっかえすな。なんで戻る資格がねェ」
 金髪の目が不自然に反らされる。ぐっと唇を噛み締めた。
「お前がそう思ってるだけで、ちゃんと待ってる奴がいるんじゃねェのか、お前にも」
「いるだろうな」
 金髪は諦めたようにため息をついた。
 ゾロの目を見て、笑う。馬鹿笑いではなかった。
「いるんだよ、だから資格がねェんだ」
 じゃあな、と金髪は最後に言った。
 どん、とゾロは胸を押された。完全に不意打ちを食らって、ゾロは後ろに倒れた。
 落ちる、と思った。地面にではなく、深く深く、下へと。落ちるだけでなく、下から引かれる感じもした。
 最後に金髪を見上げると、奴は暢気に手を振っていた。



 目が覚めた。一瞬、舞い戻ってしまったのかと思ったくらい、視界に入ってきたのは白一色だった。しかし、白いと思っていたものにはところどころ茶色い染みがあった。目を凝らしていると、視界に両親の顔が映った。白いと思ったものは天井だったらしい。
 目が覚めた、と大騒ぎしている両親を尻目に、ゾロは盛大に舌打ちした。
 くっそ、あの金髪野郎。
 不覚を取ってしまったことが非常に苛立たしい。しかも、報復する手立てがないときた。
「なによ、あんたってば目覚めて一番に舌打ちなんかして!」
 母親が泣きながら叫ぶのを聞いて、さすがにゾロはしまった、と思った。見回してみれば、周囲には重々しい機材があるし、何より眼球以外は体が動かない。
 あー、そういや、事故にあったんだっけ、とゾロはこうなってしまった原因をやっと思い出した。



 退院までには一ヶ月以上かかった。本来は一ヶ月なんて短期で退院できるような怪我ではなかったらしい。驚異的な回復力だと医者にも呆然と言われるくらい、ゾロは健康体を取り戻しつつあった。
 それでも、まだ松葉杖は手放せない。早く歩けるように、何より学校に通うことが出来るように、ゾロは病院内を歩き回った。
「誕生日前に退院できそうで、良かったじゃない」
 見舞いに来ていたナミとルフィが言って初めて、ゾロは季節が移行していることを知った。病院というものは本当に時間の感覚を忘れてしまうので困る。
 時間の流れを取り戻すためにも、ゾロは病院内を松葉杖で徘徊した。病院内は辛気臭くていやなものだと思っていたけれども、重病患者の病棟以外は、にぎやかなものだった。
 ゾロはふと思いたって、別の病棟に足を運んでみた。末期の患者がいるような病棟ならばすぐに引き返そうと思ったが、そういう雰囲気はなかった。しかし、ゾロがいる病棟よりは静かだった。
 こつこつと、松葉杖を突く音が響く。
 ある部屋を通り過ぎようとしたとき、金色のものが目にひっかかった。
 まさか、と思って、ゾロは病室内を覗き込んだ。六床あるベッドのうちの一つに、自然と目がひきつけられた。
「あいつ……」
 ゾロは松葉杖をやや乱暴に音を立てて、近寄った。
 ベッドに眠っているのは、あの微妙な中立地帯で会った金髪だった。何より、見間違いのない眉毛をしている。こんな眉毛は、中立地帯でも下界でも、たった一人しかいないだろう。
 しかし、記憶にあった金髪はゾロと同じ年くらいだったが、ベッドに寝ているのはもっと年下に見えた。中学生くらいかもしれない。
 金髪は目を覚まさない。投げ出された腕は透き通るくらい白い。血の気のない、病人の白さだった。点滴の跡が鬱血していて、痛々しく見えた。ぴちょん、と点滴が落ちる音がやけに耳に響いた。
 ベッドの上にある名前に、ゾロは目を止めた。
『サンジ』と書いてあった。
「チビナスの友達か?」
 振り返ると、老人が立っていた。ゾロと同じ病室で囲碁に興じている老人連中よりも、妙に迫力がある老人だった。髭が長いからかもしれない。
「……あんたは、こいつのじいさんか?」
「年長者に対する口の効き方がなってねェな」
 ふん、と老人は鼻を鳴らして、金髪のベッド脇へとやってきた。その足取りがぎこちない。足元を見ると、老人の片方の足は義足だった。
「事故でな」
 不躾に見てしまっていたにも関わらず、老人はゾロに言った。
「……それより、お前はこいつとどういう知り合いだ? クラスメイトじゃねェな。お前は高校生だろ」
 ゾロは少し迷ってから頷いた。
「まあ、ちょっとな。一回だけ会ったことがある。どうしたんだ、こいつ」
 嘘はついていないので、ゾロは堂々と問いかけた。
「見りゃわかるだろうが。意識不明でくたばってやがる」
「原因は?」
「さあな。脳にも異常はねェらしいが、いっこうに目を覚ましやがらねェ。おれは片足なくしてもしぶとく生きてるってェのに、ったく情けねェ」
 老人と、『サンジ』という名の金髪は、どうやら同じ事故にあったようだ。
 なるほどな、とゾロは金髪を見下ろしながら思った。資格がないと言っていた中立地帯の金髪を思い出した。
 どんな事故だったか、もちろんゾロは知らない。しかしきっと、この金髪は自分のせいだとでも思っているのだろう。罪悪感に縛られて、あそこから動けないでいるのだろう。
 つまんねェ理由だ、とゾロは思った。
 老人はじっと金髪の顔を見下ろしている。
 その表情を見てゾロはやっぱり思った。つまんねェ理由だ。



 それからは、ゾロの散歩コースにサンジの病室も加わった。
 老人は退院しているようで、たまにゾロがいる時にやってきたりする。
 たまには、老人がいる時にゾロが出向くことがある。
 ぽつりぽつりと話していると、老人が洋食屋を営んでいること。しかし、火事を起こしてしまって再建中であることなどを知った。
 そして、サンジは三ヶ月以上も意識不明のままなのだという。
「飯も食わねェで、点滴だけで生かされやがって。ったく、不甲斐ねェ」
 そういって、老人は帰っていった。帰り際に、ゾロが明日退院することを告げると、たまには見舞ってやってくれ、とその時だけは祖父の顔をして言った。
 老人が出て行ってからも、ゾロはなんとなく椅子に座ったまま、サンジを見ていた。
 眠っているサンジは、死んでいるようだった。
 こうして息をしているのに、中立地帯だなんて、あんな死に近いところで出会ったサンジの方が生き生きとしていた。
 あの眼をもう一度みたい、とゾロは思っていた。開いておれを見ないだろうか、と思っていた。
 外からの風がひんやりとしている。ゾロが事故に会った時には、まだじわじわと汗ばむくらいの陽気だった。
 サンジはもう三ヶ月も季節を飛び越してしまっている。
 投げ出されている白い手首を、ゾロは握ってみた。記憶にあるものよりも細かった。しかし、それはちゃんと温かかった。中立地帯の金髪よりも確かな温かさだった。
「てめェはアホだ」
 何が資格がないだ、とゾロは手首をきつく握った。ただでさえやせ細っているので、その気になれば折れそうだった。
「年寄りにあんな背中させんじゃねェよ」
 何回か見た、老人の背中を思い出す。
「戻って来い」
 明日には、ゾロは退院してしまう。毎日顔を出すこともできなくなる。
 どうしてこんなにこのガキが気になるのか、ゾロは自分でもよくわからない。ただ、この秋の空のような、あの眼をもう一度見て見たいと思っていた。
 それだけだ。
「サンジ」
 中立地帯は面白くねェだろう。
 ぐっと手首に力を込めると、掌から血の流れが伝わった。
 どことなく、脈が乱れた気がした。ゾロははっとサンジの顔へと目を移す。まさかな、と思ったのも束の間で、閉じられていた目蓋が震えた。
 手首をまた握り締める。ゾロは今か今かと、その時を見守った。
 

 窓の外には、良く晴れた11月の空が広がっていた。







ゾロ誕だと言い張る! ハッピーバースデイ、ゾロ……!!!!
この後は高校生×中学生という犯罪コースですな(犯罪言うな)。



2009/11/11

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